潔癖症の人




人に自分の印象を聞くとそれから学ぶ事が100くらいある。スクショは長年のフォロワーさんに「#いいねしてくれた人の現時点での印象を言う」みたいなやつで返ってきた答えだ。自分で自分の事を考えて言葉にするけど結局それは堂々巡りでしかないので、人に話を聞く事でそれが自分探しの答えになったりする事は結構ある。それを期待して人に自分の事を聞いたりもするけれど、人に自分の印象を聞くのは、かなり構ってちゃんみたいで憚られるし、それに自分について、そして他人について、そんなに語れる言葉を持っている人は多くない。


帰省して久しぶりにテレビを見ている。「キスマイBUSAIKU!?」という世界一嫌いな番組があるのだけれど、それだけでなくもう大半のテレビ番組が見れなくなってしまっていた。テレビ番組、というか外にあるコミュニケーションの一部分は他人の言動を論う事で成り立っているんだけど、どうしてもそれを面白いものとして見られない。行動に指を指されてケラケラ笑われるとか、あれはないよねえと陰口を叩かれるとか、そっち側の人間に感情移入して見てしまう。キスマイBUSAIKU!?はそういった人の行動を喋りだけではなくきちんとテロップで表示してくれるので、共感性羞恥の自分に分かりやすく、羞恥をさせて頂けるのでぶっ刺さりである。やっぱり娯楽にも向き不向きがあって、一般的な所で言うと自分は下ネタとかが割と好きなんだけど、それって人によって得意不得意があって、向けられただけでフリーズしてしまうような人がいるように、地雷の数は人の数だけある、というだけの話で、それで自分は、人を論うネタが苦手だっていうだけの話。


今書いていて思ったけど、「何かが嫌い」というトピックは話し手としてとても話しやすい話題なんだよな。今日の主題は「何かの悪口を主体としたコミュニケーションが苦手」だった筈なんだけれど、早速矛盾してしまっているな。英語の授業で「What's your favorite food?」なんて聞くよりも「What food do you dislike?」って聞いた方が話が盛り上がる、という持論があるんだけど、好きな食べ物の話なんか、あるあるすぎて各人エピソード持ってるからトントン、みたいな説もあるな。


閑話休題。そういったコミュニケーションが苦手で、そういう話をされる度に悪口を言われるものの気持ちになってしまってどんどん精神力が削られていってしまう。とはいえ、コミュニケーションのデッキのTier1として、自慢話と人の悪口は燦然と輝いているので、それから逃れる事も出来ないし、それを許せるようになりたいんだ。相手から口にする事もそうだけど、自分で意識して悪口を口にする事が出来るようになりたい。自分を棚に上げる、というのももうちょっと自分はしてもいいと思う。多分もう自然にめちゃくちゃ言ってはいると思うんだけど、意識的に言おうとすると自己批判の声が脳内で反響してしまうからそれをやめたい。



自分は長年ブログを書いているので「文章が上手い人」だとよく評される事があるんだけど、自分で自分の事を、「文章を書くのがめちゃめちゃ下手」だと思っていて、それは何故かというと、全部が全部の文章、この書体でしか書けないんだよね。構成もクソもなくて。高校で小論文を書く時もなかなか先生の「ここを直した方がいい」という部分が理解できず、手直しするだけでいい文章を全部取っ替えて毎日原稿用紙5枚を書く羽目になって鬱になったり、大学に入っても英語の論文で先生に「言っている事がめちゃめちゃだ」と言われ、どうやっても完成させる事が出来ず、その授業が必修だったので同じ授業を6回取り直して、結局卒業する事が出来なかった。


以上のエピソードで実感した事が、「自分の文章のリズムを一度崩されると完全に筆が止まってしまう」「自分のお気持ちしか書けない」という事。客観的に、構成通りに書く事が致命的に苦手。良くも悪くも主観的で感情的な人間だなあ、とつくづく思ってしまう。そこでタイトルの「潔癖症」なんだけれど、潔癖症の人間って別に側から見てめちゃくちゃ綺麗って訳じゃないんですよね。ただ自分の中で「こうしなくちゃいけない」ってルールが沢山あってそれに縛られてしまう人間なんじゃないかって。それって自分と近いところがあるよなあって思います。まあ、不安症と、強迫性障害、遠からずな所にいますからね。ほぼイコールみたいな所ありますよ。自分の文章に対して他人の目線を少し許容できるように(一生ならないと思うけど)なりたいですよねえ。文章を書くのは楽しいから仕事にしたいなあとは思うけど、こんな感じだからお金にはならないね。


自分がどんな職についたらいいのか1mmもわからない。つべこべ言わずにハローワークに行けって話なんだけど、行って調べても「どんな職をお探しですか?」って言われてそこで詰む。自分の担当する職場の人間関係がほぼ全てでそれ以外は別に何でもいいと思っているけど、多分新卒の人間みんなそうで、その上で自分なりに情報収集して、えいやと新しい波に飛び込んでいくのが一般的で、そこに飛び込めない自分は、例えば小さい頃に橋から川に飛び込まなきゃ友達と認めない、のに飛び込めないような、そんな疎外感を感じる。いつか社会にお前は友達と認められる日は来るんだろうか?


そんな感じでひどく不安を感じながら毎日を生きています。現在は帰省しているのですが、隙を見せると「お前、これからどうするんだ?」パンチが飛んできそうで怖いから迂闊に自分の部屋から出られないし、外に出ようものなら知り合いと会って「仕事何してるの?」パンチが飛んできそうで精神を擦り減らしながら親に連れられながらご飯を食べに行ったりしています。

あなたはどうですか?あなたはどうして自分が生きていていいと思いながら生きていけるんですか?外を歩いていたら他人から存在をしているだけで嫌な思いをさせていると妄想をしたりしませんか?あなたはそうじゃないとして、隣に座っている人がそうやって考えている事、考えもしませんか?しませんか。そうですよね。私は、ずっとそんな事ばっかり考えています。「他人は自分の事をそんなに考えてない」なんてそんな言葉が薬になったらいいですね。あなたがそうであってもそうでなくても、私の見えてる世界がこの有り様なので、話はこれで終わりです。おつかれさまでした。

わたしみ

わたしみ

Twitterしばらく見ない」って言っておいて全然見てる。怒らないでね。

The old fogey almost did it.

 

 

 自分には好きなものに自分を重ねたり、引用する事でしか自分の気持ちを他人に共感させる手段がない。それを「自分がない」と言い切ってしまえばそれまでだ。

 言葉って自分の集めた好きなものから出てくるものだけど、果たしてそれがオリジナルの「自分の言葉か?」と言われれば疑問だ。我々は自分の言葉を他人の言葉に仮託し過ぎている、人生も然り、自分の人生を生きるべきだ、

 

 

 うるさい、他人の人生生きさせろ、誰かの人生に仮託して生きていきたい、私はいつか王子様が迎えに来てくれて毎日王子様の事を想って、王子様の不倫に一喜一憂してそれでそのまま死んでいきたいんだ。

My Adorable, Broken Internet Archives


小学生の頃、プロフィール欄の私の宝物の欄に「プレステ2メモリーカード」と書いていた。


小さい頃から実物よりデータで物を集める事に執心してきた。プレステ2メモリーカードのデータは破損してしまったけれど、今でもYouTubeWatch Laterのリスト、ブラウザのお気に入りのサイトを眺めては恍惚に浸るのが趣味だ。


これは私が長年こういう事をやってきたから分かるのだけど、「ネットにアップされた情報は永遠に消えない」というのは嘘だ。公式、非公式に拘らず。個人でやってきたサイトは個人の一存で消えてしまうし、ブログサービスなんかも、会社の盛衰によって消えてしまう。現在進行形でブログサービスがどんどん終了していっているし、本人が「パスワードを忘れた」というだけでもう一生他人の目に晒されない。


あれだけ好きだったボーカロイドの曲が、投稿されていたニコニコ動画からいくつか削除されているのを見つけた。たった8年でこれなのだから、いずれ、自分がハゲにになる頃には、ニコニコ動画ごと無くなってもおかしくない。いま、僕たちが躍起になってやっているTwitterも、他のもっと有用なサービスが確立すれば、いずれ飽きられ捨てられる日が来るかもしれない。仮にそういう日が来たら、人に転載するに足らない、と判断された言葉たち、画像たち、動画たちが誰の目に留まることなく消えてしまうのだ、とひとたび考えてしまうと、その情報たちが愛おしくてたまらなくなってくる。


YouTubeの動画のひとつひとつは、誰かが作った汗と涙と血の結晶なんだろうけど、その努力を知らない消費者の自分からしたら、海辺で集めたきれいな貝殻みたいなものだ。尤も、それは自分のものじゃないから、いずれ消えてしまうし、ここにある文章も、いずれ消えてしまう。死んだ友達のFacebookにあった動画は複製して残してあるけど、果たしてここにある文章は、自分の残したデータは、誰かが複製するに足るものなんだろうか?と考えてしまう。


インターネットの最期があるとして、インターネット(PortalのGLaDOSみたいな人工知能を想像している)は、スペースデブリみたいにインターネットを浮遊している、誰にも思い出される事がない、私の言葉を走馬灯で思い出してくれるのだろうか?インターネットは、傍目には消えているように見える、誰かの言葉たちを全部覚えていたり、するんだろうか?



ディズニーランド問題



ディズニーランドに対する並々ならぬ想いがある。「現実に存在するファンタジーを全然楽しめないコンプレックス」というか、 どこかそういう物に対して冷笑的になってしまう(そこに入り込んだ方が絶対に楽しいというのは分かっているのに!)のが悩みで、決められた場所で自己を解放できる人が羨ましくてたまらない。

「自己を解放できる」という言い方をするのはなんか違う感じがして、あの空間にいて楽しめるって事は、「あの空間が要求するロールをすんなりと受け入れられて、かつそれが楽しい」という事で、そう考えるとめちゃめちゃすごくて、そして多くの人間がそれが当たり前である、という現実に愕然としてしまう。

ディズニーランドとか、あと例えばメイド喫茶や、キャバクラなんかもそうだけど、そこの空間においていくつか暗黙の決まり事があって、キャストにも客にもそのルールを守ってもらう、その上で楽しむ、みたいなものがもう明確に苦手で、「これは決まり事を破っていないか」「キャストに迷惑がかかっていないか」という事を一々気にしすぎてしまって、現実社会以上にストレスがかかってしまう。

こういう事を考えてると「肩を抜いて楽しんだ方がいいよ」とか「難しい事を考えないで」とか言われるんだけど、それが出来ないから、こんなにコンプレックスを拗らせているんだろが、と思う。普通の人(いつもこの表現を使ってしまう)(普通の人とかいないのに)は、多少ハメを外した所で役割を自然に果たすことが出来て、スタビライザーが付いてるのにすっかりそれを忘れていて、「スタビライザーなんかいらないっすよwww」と言っているように思えて、それがすごく羨ましい。その人達は私の事を 、「空気の読めない奴だ」と言って面倒臭がると思うけれど、どうしたらいいのかわからない。病的な人間は隔離されるべきなんだろうか?人前で足の先まで気を張ってないと、人前で人間の形状を保っていられる気がしない。

そもそも人的なファンタジー、というだけじゃなく、ファンタジーそのものがひょっとしたらあまり好きじゃないのかもしれない。ディズニーランド、ディズニーランドだけじゃなく、人的なファンタジーを普通に楽しみたいのに、「肩を抜いたフリ」「難しい事を考えないフリ」をするのが難しくて、全然楽しめない。誰か、ディズニーランドを歴史的建造物として扱ってくれる人間といつか一緒にディズニーランドを散歩しに行きたい。ディズニーランドは歴史的建造物として、歩いているだけで楽しそうなのに。公式の推奨する楽しみ方だったり、「ディズニーを好きな人」の「ディズニーの楽しみ方」を押し付けられる事でそれ自体を嫌いになってしまうような事ばかりだ。

一人で行けって話だよね、泣けてきちゃう。





「あのねえ、物事にはね、キリっていう物があってね。私にも世間の目っていうものもあるの。もしあなたが大学に行きたくない、就職もしたくない、一日中ベッドの中で寝ていたい、というんだったら、せめて気狂いか、病気にでもなれないの?ただね、こう、はっきりしてもらわなければ……はっきりと……」



フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

選挙に行かない



選挙、行きました? 僕は行きませんでした。

20歳になって参政権を得てから1回しか投票所に足を運んだ事がないんですけど、これからも自分の中で何か変化がない限り行こうとは思わないでしょう。偉そうに言い訳を言うようですが、その理由をつらつら挙げていきます。



1番の理由として、「自分の一票で何も変わらないだろう」と思っているからです。本当に月並みな理由で申し訳ないのです。実際変わるのだとしてもそう思うでしょう。「自分一人じゃ何も変わらないだろう」っていうのは普段の生活から強く感じていて、例えばアイドルのライブとか、アーティストのライブとか「自分一人手を上げてても上げてなくても変わらないだろう」って手を上げなかったり座ったりしてるんですよね。それで「演者側から見た時、一人でも盛り上がっていない人が見えると寂しく感じるからちゃんと(手を)上げよう」みたいな無言の圧力を感じてしまって、そこにいるのが嫌になってしまうという事が多々あります。

そういう空気感を選挙の中にも感じ取ってしまって、別に政治的な事を話すのは嫌いではないのですが、選挙に行くのにアレルギー反応を起こしてしまっている、という感じです。でも「そういう空気感」と言われてもピンと来ませんよね。ううんと、「お前が選挙に行かないから俺達若者は不利益を被ってるんだ、投票に行かないなんて日本国民じゃない、お前の学が足りないからお前は選挙に行かないんだ、俺が啓蒙してやる」という態度です。そういう空気をネットの書き込みや、記事から読みとってしまって、これから離れざるを得なくなった、という形です。


第2に、自分のメンタルの不調が原因だと思っています。ネットの記事からそこまで被害妄想を抱くなんて、とてもとても健康的ではないですよね。

少し違う話にはなりますが、仮に「税金が〇〇円過度に請求されていますので、何日までに役場に来てください、払い戻しを致します。」というお手紙が役場から来たとて行くか行かないかは半々くらいだと思っています。そもそも休み、日中に外に出れない。そういう人達、自分以外にかなりの人数いるはずなんですよね。自分みたいに普段日中に行動し慣れてない、というのはマイノリティだとは思うのですが、日々の仕事で疲れてしまって、自分のしなきゃいけない、例えば公共料金の振り込みとか、家賃の支払いとか、スマホの画面が割れているから交換の申請をしに携帯ショップに行かなきゃいけないとか、そういうのが後回しになっている人間って多々いるはずなんですよね。そういう人を指して、「選挙に行かない奴は政治に口出す資格がない」と吐き捨ててしまうのは少し乱暴なのではないかな、と思ってしまいます。(実際にそうだとしても、です)


そもそも日本の若者全体が政治的な話題に関してに軽いノイローゼになってしまっているのでは?と思った事もあったんですが(これは自分の事ですが)、一方で政治の事なんて何も知らないし、知るつもりもない、という層もあると知って、世代間の断絶だけではなく、同世代間の断絶も同じように感じてしまいます。やはり現実世界はともかくとして、ネットでどのコミュニティに属しているかによって、伝わりやすい情報、そうでない情報があって、現代はそれを取捨選択が可能であり、伝わらない人には全く伝わらないし、逆に伝わる人には過剰に伝わってしまうという部分があるのではないかと考えています。



「どうして若者は選挙に行かないのか?」という問題に対して、様々な議論がされていますが、20代にこの質問をして返ってきた答えを額面通りに受け取るのは少し違うような感じがしています。自分は、

・20代の人間がおおよそ個人主義のコミュニティで生きているため(地域のコミュニティの弱体化)、政治的な関心を自分で持たない限り投票に行く所まで辿りつかない ・政治的な闘争の山だった世代を見てきて冷笑的になっている世代が今の親世代、比例して子供世代にも政治に興味が失われている ・(これは自己投影かもしれませんが)若者全体の自己肯定感の減少、未来に対するイメージが持ちづらくなっているため、自分の将来と結びつく選挙を忌避してしまう

…みたいな予想を立てました。多分、現在生活しているコミュニティで、「みんな行ったよ(あなたは行かないの?)」って言える事が出来るようになったらみんな行くんじゃないかなあと思います。ただ、現在身を置くコミュニティが複数存在している事がほとんどで、ローカルなコミュニティの効力があまり無くなってきていて、そこの説得力があまりないですね。


自分がアレルギーになってしまった、「選挙へ行かない事へのネガキャン→選挙に行こうと煽る」やり方で行く人は行くんだろうけど、進行形で投票率が下がっているのを見ると、あんまり意味が無いんだろうなと思います。みんなネットの啓蒙だけじゃ意味が無いって、いつ気付くんでしょうね。

ネットで投票できるようになったら投票するのに、という意見もよく目にしますが、東京オリンピックのサイトもかなりガバガバかつ、大部分を民間企業に委託している状況の中、現政党下で電子投票を導入するのはあまりに危険すぎるので、今の所論外だと思います。

もう大部分の若者が思っている事とは思いますが、自分は現政党には期待していないし、じゃあ野党に入れるかといったら他の政党も信頼できないという感じです。(もう選挙が終わっているので言っていいとは思いますが)その中で枝野さんが言っている事はまだマシだとは思いますし、彼が立ち上げた立憲民主党マニフェストにはある程度賛同できるのですが、その党の中にいる人間が信頼できるかと言われればそうではないし、本当に納得した結果でないならどうしても役場まで行く気にはなれません。

「完全に納得しないと1mmも動けない」というのは、自分の性質の話ですし、政治の話でなくとも他人にとやかく言われる謂れはないです。「なぜ投票に行かないのか」と嘆息されるだけで行く気がとんと失せてしまいます。今つらつら言ってきた事、「そんなの言い訳に過ぎないじゃん」と言われ、「じゃああなたの意見を聞かせて」と言われても何も言う事はないです。そんなのお前の中の妄想だけの話だよ、と言われればそうなのですが、黙っているだけでもいくらでも意見が稚拙であるという自責が刺さるし、あえて火中の栗を拾うような真似はしたくない、という感じです。


尊敬する細美武士YouTubeで選挙の話をしていたので、そこに対してのモヤっとした感情を書き起こした次第でした。「今お前ができる事をどうしてやらないんだ?」と思っている人には1mmも分からないと思います。「てめえには分からないよ」と言う事がどれだけダサいのか知っているつもりです。本当にそうですよね。選挙には行った方がいいです。私達の未来が懸かっていますから。

Instagram post by wac • Jul 23, 2019 at 7:01pm UTC

オタク、お休みします


オタクTwitterアカウント、休止します。今までSNS断ちとか一回もやったことなかったんですけど、気付いたらVtuberのツイートとか声優のツイートとかを見て丸々1日が終わっていて、ヤバいと思っていたところ、昨日ふとスーパー銭湯に行って「凪のお暇」を読んだらTwitter休むのもいいのかもしれないなあって思ったので一旦やめます。漫画に影響されやすいので。

明日には戻ってきてるかもしれないけど、宣言してみるだけ宣言してみるって感じです。

それだったら「Twitter、お休みします」で良かったんだけど、今回「オタク、お休みします」が題名になってます。僕は、アニメオタク、Vtuberオタク、邦ロックオタク、声優オタクなどなどをを自称してきたんですけど、「オタクならこれくらい知ってなきゃいけない!」っていうなんとなくの自己ハードルを課していて、自称しているものが増える度に摂取しなければならない情報が増えてしまってて、

別に辛くはないけど、さっきスマホから離れてお風呂に入ってて、ちょっとこれでいいんかな?って感じになったので、こう、オタクの看板を一回外そうかなと思っています。 とはいえ、オタクの看板を外して、自分に何が残るかと言われれば甚だ疑問なんですよね。「自分には何もない……(cv.大橋彩香)」って言って枕を涙で濡らしながらTwitterを開く図が目に浮かびます。



ま、やってみるだけやっていきましょう。



凪のお暇めっちゃ面白かったの是非とも読んでほしいです。主人公が以前好きだった人に似ていてとても心が締め付けられました。そういう漫画じゃないんですけどね。

物語内にも出てくるんですけど自分は「容姿が可愛すぎて浮いてる」みたいなキャラが好きです。容姿が可愛すぎて隙あれば男から言い寄られるんだけど、そのせいで周りの女キャラから男に色目使ってる!ってなって嫌われる、別に普通に人と接したいだけなのに!実績をあげても容姿のおかげだって言われるから自分の努力してきた事ってなんなんだ………みたいなみたいな。

あれって本当にあるんですかね、めっちゃ可愛い人間に逆に近寄りたくないですよね、電車の中で女性の隣に座ると気を遣ってしまうから、あえて男性の横に座る方が安心する、みたいな。

あ、電車で思い出したんですけど、この前女性の隣に座るか刺青とか入っている大股開きのイヤホンでめっちゃ音楽聴いてる外人に座るかの二択に迫られて、(今思えば普通に立ってればよかった)じゃあ外人の隣座るかつって座ったら明らかにソワソワしだして、なんか喋り出したと思ったらすぐ電車から出て行って、あれは近寄るなってサインだったんだろうなあって降りた後で思いました。怖かった。

話は戻るんですけど、めちゃくちゃ可愛い容姿の人間が居て、ちょっと仲良くしてくれたら「俺に気があるんかな?」って思っちゃうと思うんですけど、今の20代の男性ってそれで失敗して女子グループのLINEに晒されたりとか、そういうのを経験していると思うので、仲良くした人間全員アプローチしてくる!辛い!みたいなのは今あるのかな。一部のハイスペックの男が手当たり次第アプローチしていて、それを「全員」と思い込んでいるだけなのでは?って勝手に思っちゃうんですよね。普通以下と自認してる人間だったらそもそも恋愛のステージに上がるのを拒否すると思う。自分は無理。

現実では容姿のいい女と普通の見た目の男がいて、女は「こいつは自分の事を恋愛対象として見てないから楽だ」と思ってるのに対して男側が恋愛対象として見られるのが嫌だろうから見ないようにめちゃくちゃ気を遣ってる図はよく見るような気がします。居酒屋でそういう感じの会話を聞いただけで、別に「よくある」事ではないのかもしれませんけどね、よく見ません?あれは女側もその辺分かってて、「でも普通に話してくれるように見えるから」で黙認してるんですかね?どうなんだろう。

なんの話だったっけ。こういう「可愛すぎて周りから疎まれてる女」は女作者特有って思ってしまうんだけど、男作者だとか女作者だとかそういうので見るのはあんまり良くないよなあと思いつつ、でも絶対そういうのあるよなあと思いつつ、その辺でモヤモヤしてるやつも、Twitter見てる事によって生まれてきているので、女性嫌悪がもっと加速する前に(もうなってるのかも)離れた方がいいのかなあっていう結論です。

(画像は先日どこかで落としたと思ったら近所のデカい交差点に落ちていた、2年くらい毎日つけていた磁気ネックレスです)






自分、どうやっても普段から人に優しくしてしまうんですけど、(八方美人とはまたちょっと違う)どれだけ優しくしてもすぐにそれを捨ててまた優しさを必要としている人にどこまでも優しさを吸収されてしまって疲れてしまう事がよくあるなあと思ったんです。

そう言ってるけど、果たして自分は他人に優しく出来ているか、といったらそうではないと思うんです。ナチュラルボーンに優しくて、ノンストレスで周りにそれをばら撒ける人間には優しさで勝てないし、人と比べて気配りが上手くて話を聞くのが得意、という訳ではないですし。ただ自分が弱そうだから、搾取されているだけなのでは?と思っちゃったんですよね、

人によっては優しさは目減りしないかもしれないし、優しさってそういうものではないかもしれないけど、自分の優しさは目減りする。人に優しくできるにも限度があるし、嫌なものを良い、と言うには体力が要るんですよね。

愚痴を吐かれると強い言葉に言葉に影響されてしんどくなっちゃう、又は悪口を言われた相手に対して共感して辛い気持ちになってしまうというのは気持ちの持ちよう、と言われそうですが、根本的な所が変わらないととても変わるのは無理だと思うので、そもそもそういう人から離れた方がいいのでは?でも仲良くなって愚痴を吐かない人なんてそんなにいない訳で、そこの要求が高すぎるのでは?とかぐちゃぐちゃ悩んでいます。たぶん寄りかかりすぎてしまうのがよくないんですよね。

こうやってブログに愚痴ってたりすると「相談乗るよ!」って言われたりする事ってたまにあって、でもそれって「私の相談に乗って!」っていう事の暗喩なんじゃないかっていうのに段々気付いてきて。最初は自分の相談を聞いてくれるけど、「じゃあ私の相談にも乗ってくれる?」って相談に乗ったらひたすら愚痴を聞かされて逆に疲れてしまう、みたいな事が何度かあって。結局人の話を聞き続けるってストレスなんですよね。そんでもって自分の話も話したいからね、わかる。

でも自分もそうなんだよな。無職で時間があるからってそこのリソースは無限にある訳じゃなくて、カウンセラーじゃないんだからって思う事が多々ある。お金が欲しいとまでは言わないけど、我慢できないし、消えるね、ごめんねって感じ。

かといって自分の悩みを上手く人に話せる気がしないんだよな。それこそカウンセラーじゃあるまいし。カウンセラーだったら「この人、こんなに愚痴ったら自分の事を嫌いにならないかな」って思わずに済むけど、現実の人間とコミュニケーション取る時にはそこの線引きに気を付けながら喋んなきゃいけないし。本当にコミュニケーション、向いてないんだなって思っちゃうね。

逆に話すと愚痴ばっかりになる人間、自分に「嫌われるかも」って1mmでも思ってるのかなあ。逆に好感度が上がり過ぎて安心しきっちゃって「嫌われるかも」って観点が抜け落ちてたりして。でもまあ「嫌われてもどっちでもいいや」で話してるんだろうな。本当は話してる相手がどう思ってるか、なんて気にしないで話してる方が健康なんだろうけどね。

私はあなたのカウンセラーになってあげられるけど、私のカウンセラーはどこにいるの?って感じ。まあ90分1万円くらい払えばその辺でカウンセリング受けられるんですけどね、受けた事あります?私よりきっと、あなたに、必要だと思うんですよね、プロのカウンセリング。私なんかよりプロに聞いてもらった方がいい。


本当は100嫌いだとか100好きとか、そうなる事ってまあないんだけど、一人で考えてるとそう考えがちになってしまいがちなのほんと、良くないよね、

思わせぶりに振ってみて、私の事をもっと求めてほしい、っていうやつ、女子中学生かよって思うよね、でも酷い言い草して、「わたしの事、どれだけ好きなの?」ってやってみたくない?というか、それが許されたい。

主観的になって女々しくなっていくとどんどん敬語が剥げていくね、

本当に、そもそも私に、嫌われたかも?って思う事、ある?って感じだ、私の言葉で傷付いたり、私に遠慮して何かをしたりしなかったり、私を怖いと思ったり、そういうのがあるといまいち信じられない。

とはいえ本当に傷付けるのは怖いから実際に面と向かって傷付けるような事はしないけど、とてもじゃないけど私自身の言葉や行動に、そういった類の重みがあるとは思えない。相手もそういう感じで自分自身の言葉にナイフがあるとは思ってない、みたいな感じなんだろうか?

この文章だって、目を皿にして読んでる誰かを傷付けてるかもしれないけど、そもそも誰が読んでるんだって話なんだよな。人と接する機会がないから、愚痴ばっかりの人間も今現在周りに存在しないんだよな。ただの被害妄想で、ぐるぐるしてるだけ。

小学校の時とかに、アスペルガーとかの子供(皆さんの所ではなんて呼ばれてました?こちらは「しんしょー」でした)が、虫食べたり、大声で喚き散らしたり、他の子供を殴ったり、とにかく人にわざと嫌がられるような事をするのを見た事があると思うんだけど、あれはたぶん、自分が誰かに影響を与える、という事が信じられてないからなんだなと思う。自分の存在の小ささに耐えられなかったのだと、今、小学校の時の自分を振り返って思います。



そんな感じで病んでる時期に入っちゃったからごめんね〜⭐️💫って感じです。