かえれない

 

・自分の中で毎年誕生日の2月22日にブログを更新する決まりになんとなくなっていたのだけれど、ここ2月中ずっと喉の腫れとそれに付随する慢性的な頭痛があって、21日に病院に行った所咽頭炎だろうとのことで、抗生物質をもらって帰ってきたその夜に熱が上がってしまってそれ以降高熱で苦しんでいて文章を書くどころじゃなくなってしまった。ブログを初めて開設したのが13歳の頃だったから、ブログを始めてからもう15年にもなる。誕生日で一年の振り返りをやり始めたのは…いつだったか、mixiの頃だったか…モバゲーの頃だったか…とにかく昔すぎて覚えていない。なんとなくその後はダラダタと過ごしてしまって今の今に至る。

・最近とんと病弱になってしまった。慢性的に背中は痛くて少し椅子に座ると頭に血がのぼらなくなって真っ白になっていくようだし、立ち眩みは多いし、今回のように喉が弱すぎて一年に何回か高熱を出してしまう。相変わらず昼夜逆転の生活をしているし、運動もせず寝てばかりで、食事もろくに取らないから当然といえば当然なのだけど、こうなってしまうのも早かったなと振り返って思う。食べ物を作ったり準備するのは好きだけど、いつもなんにも食べたくなくて、色々食べ物が入っているの冷蔵庫の前でしゃがんで扉を開けたり閉めたり、スマホを開いたりしながらようやく夕方頃にうどんを茹でて食べたりしている。

・2021年頭はウマ娘にハマってYouTuberの動画を見たりしながらどれだけ強いウマ娘を作れるかに没頭していた。チャンピオンズミーティングという1か月に1回の唯一のPvPのコンテンツで何連覇かしてるのが自慢だったのだけど10月でそれが途切れてしまいそれを機にほぼやってない。その代わりにハマったのがポーカーチェイスというアプリだ。

poker-chase.com

ポーカーは中学生くらいの頃からPokerStarsの無料でもらえるプレイマネーを毎日もらってはリング戦をやったり、たまにトーナメントに出てみたりはしたけれど碌にセオリーも知らなかった(その当時はそうしたセオリーが親切に書いてあるブログもなかったと思う)けどもVTuberが案件の配信をやっているのを見て少し勉強しようと思って世界のヨコサワさん(世界のヨコサワ - YouTube)や、カジノちゃんねるさん(カジノちゃんねる - YouTube)、ポーカーの沼さん(ポーカーの沼 - YouTube)さんなどの動画を見てやってみた所TOP100の掲示板に載る事ができた。こういうアプリゲームの全国ランキングで上位に入る事が自分の中で滅多にない事だったし、またアプリ上でのプレテスト的な最初のトーナメントで1位を取れて、同じようにポーカーチェイスをやっているフォロワーが増えたのが今年の中で一番嬉しかった。

もっと上手くなるべくGGpokerでRush&Cashというポーカーチェイスとは違う形式のものをやったりしてるけど一番下のレートでボコボコにされているので最近はポーカー触るとヘタクソ!ヘタクソ!という声が脳裏に響いてきてなかなか触れずにいる。とてもじゃないけど人に誇れる腕ではない。同じポーカーチェイス出身で勝ってる人を見ると本当によく勉強していてすごい。

ポーカーチェイスとの出会いが去年の一番の大きな出来事だったかもしれない。

 

VTuberも見ている…が昨年以上に見なくなった。業界全体的な傾向としてFPSの大会への準備だったり、箱主体での大きな企画、それこそライブとかへの準備だったりそういうものにリソースを割きがちだった一年だったように思う。毎日どこかかしらで祭りの準備をしていて、知らないところで祭りが終わって、また気付いたら祭りの準備をしている…というのが大きい箱に所属するライバーに対しての自分の印象である。

イクラの雑談配信が好きだったのだけど、今はもうマイクラの配信を定期的にやっているにじさんじライバーもほとんどいない。けれどもにじさんじ亡き後も100人の歴史が詰まっているものだから文化遺産として何かしらの形で保存してほしい。

 

むろん、たくさんのにじさんじライバーが今も配信上で、そのような取るに足らない生活の話をしてくれていること、のんびりとゲームをプレイしてくれていることは知っている。しかし空気、企業としての方針が生み出す空気が、ライバー個人の配信にも流れ込んで、そこに大なり小なりの気負いが生まれているというのも、また事実のように思える。その言外の気負いが、貧弱な私にとってはしばしば重たいのだ。 波に乗るよりも、波に抗って立ち止まり続けることのほうが難しい。そのことは承知している。つまらないものが見たいと言うのは、おもしろいものが見たいと言うのと同じかそれ以上に傲慢で、仕事としてVTuberをしている人たち、存在そのものが事業のなかにある人たちに本来向けるべき言葉ではない。そのことも理解しているつもりだ。それでも、絶えざる拡張や、前進や、発展の先に、果たして何があるのだろうと思ってしまう。膨らましているものは、しぼむか、破裂するしかないという未来が臆病に、幼稚に、そして自己中心的に怖い。いちばん楽しい熱狂の瞬間には、それが終わるときのイメージが頭を掠める。 「戻ってほしい」と言うほど変わったわけではないし、「また観させてほしい」と言うほど観ていないわけでもない。全然観ている。ただ、2020年と比べて振り返ってみたとき、わずかに遠のいたように感じるその距離を、今は少しだけ不安に、そして寂しく思っている。

電波に照準を——極私的VTuber備忘録2021 - 石少Q

 

引用先の記事が素晴らしすぎて正直自分がVTuberに対して思ってる事、何を言っても二番煎じな気がする。引用先を読んでほしい。見てるVTuberも大概一緒。一ノ瀬うるはの配信を聞きながらここ一年は寝てる。

 

・上京をしてからというもの盆と正月には必ず実家に帰省していたのだけど、流行り病の影響があって、一昨年の年末と去年の盆は実家に帰省する事ができなかった。去年の年末、2021年の年末にようやく実家に帰る事ができた。祖父はずっと腰が悪く、一昨年にもうほとんど動けなかったのだけれどキッチンに座って食事を取る事は出来ていた。でも、もう出来なくなった。今までキッチンには6つ椅子があったのだけれど、去年の正月に帰省した時には4つに減っていた。もうきっと祖父はもう二度とあのキッチンの椅子に座る事はないのだろう。ずっと部屋で介護用のベッドに横たわってテレビを見ている。

帰省中のある日、部屋(自分の部屋は二階にある)で寝ていると、祖父の部屋から「おばあちゃん…おばあちゃん…」と唸るような声が聞こえる。祖母は居間にいてその声が聞こえているはずだけれど、呼ぶ声が止まないので一階に降りて祖父の部屋に入る。「おばあちゃんを呼んできてくれ…」と祖父は助けを求める。居間に祖母を呼びに行くとお前が相手してやってくれ、と言う。そう言われたからと再度祖父の部屋を訪ねてしばらく部屋にいる、みたいな事が何度かあった。多分祖母は一日中そうやって呼ばれてもううんざりしているのだと思うし、祖父も自分がいるとしくしくと泣いてしまうような、終始そういう調子だった。何かしてあげたいが、何もすることができない。とりあえずそういう事があったと何かに書いておこうと思った。

 

(2月末にはもうここまで書いていたけどいつまでも投稿しないのでもう諦めてここで投げておきます)

 

open.spotify.com

Easy revenge!

 

‪人の根源的な欲求として、人を殴りたい、叩きたいというものがあると思うんだけど、2019年日本だと殴られ損、殴り得みたいな所があるから本能に従って人をどんどん殴って行った方がいいと思うんだよな。‬

滅私 - 一関市物産展

 

 2019年時点の自分は「殴られ損、殴り得だからこれからは人をどんどん殴っていった方がいい」と言っていた訳なんだけど、2021年現在はよりその傾向が強くなったと感じている。森元首相の件とか、「この人は差別をしています!」とひとたび誰かが指差して叫ぶと、どこからか人が集まってきて反論の声も出せなくなるまで袋叩きにされてしまうような、そういう光景をよく見かける。相手に慣れない気遣いをした結果、自分の歪な所が浮かび上がってしまって袋叩きにされるみたいな経験が自分の人生にもあって、それと重ね合わせてしまって暗い気持ちになっていた。

 

 そうやって日々悶々としていた中で一昨日近所で大きめの火事があった。轟々と燃えている近所の家を前にして「自分のアパートが燃えるかもしれない」「どうしてあの時スマホも財布も持たず逃げてしまったんだろう」と消火に至るまでの3~4時間、後悔に苛まれていたら、日々悩んでいたTwitterでの諍いで悩んでいた事がどうでも良くなった…とまではいかないけど少し距離を置いて見れるようになった。

 

 やっぱり何かに悩む、というのは俺が暇だからやってるのかもしれない。悩みたいから悩んでいる、自分が不幸だと思いたいから不幸である、全ての境遇は思い込みに過ぎない、みたいな考え方に感情的にあまり賛同できなかったのだけれど、本当はそうなのかもしれない。どちらにせよあるストレスはより大きなストレスによって圧倒される事を実感した出来事だった。

 

 

 27歳になった。20代前半では「27歳で死にたい」と言っていたが死ぬ目途が立っていない。日々身体も頭も動かなくなっていって、それでも日々を回していくだけの行動は起こさなくちゃいけなくて、そのために自分のやれる範囲で自炊をしたり、運動をしたり健康になろうと努力していく中であまり「死にたい」と強く思う事はなくなった。毎日生きている事が申し訳なくて「ごめんなさい」「すみません」と独り言を言ったりしてるのだけど、例えばカーテンを引きちぎって首に巻いたり、練炭を用意するような激情が自分の中にもう残っていない。ただ日々YouTubeTwitterを往復しては無になっている。ゴミだ。

 

 周りは素晴らしい人間ばかりで、自分はただそれに混ぜてもらっているだけという感覚がある。外見も中身も社会的な地位も、およそ自分の年齢に足るレベルには達せていなくて、現実で人に出自を訊かれたりすると口ごもってしまう。出自を隠す人間を人は信用しないし、かといって「26歳で定職についていません」と正直に言って気をつかわせてしまうのもまた罪なような気もするし、嘘をつけるほど器用な訳でもない。昨年の段階では社会復帰をするためにそういう自分を包含してくれるコミュニティを探して東奔西走していた訳だけれど流行り病の影響もあり頓挫してしまった。正味探せばいくらでも出てくるとは思うのだけど、あと一歩が出ない。こういう状況を鑑みるともう一生人間に足るレベルに到達する事なんて不可能なんじゃないか?とすら思えてくる。

 

 

 2020年もずっとVTuberを追っていた。でも、もうそろそろ追いきれなくなってきた。

 自分はアニメキャラを見る時も強く声優の存在を意識する方で、VTuberを見る時も中の人の存在を強く意識する。そんな中で「コンテンツとしてではなく1人の人間として接しましょう」みたいな注意喚起が沢山回ってくると、更に中の人間を意識してしまって、俺の何が中の人間を傷つけてしまうか分からないから、もう何も言うべきではないなと思っている。肯定的な物言いを強いられている感じがしてめっちゃだるい。VTuberの勢いは止まることを知らず、今最盛を迎えて月に1度はライブがあり、各種メディアに出ている訳だけれど、いわゆる「推し」の晴れの舞台が自分にとって嬉しくなくて、周りとの距離感を感じている。やっぱり嬉しい!と思えるためにその集団への帰属感というものがある程度必要なのだけれど、その集団が大きくなれば大きくなるほど、自分の必要性を感じなくなって、没入感が薄れていく感じがする。

 

  要するに「人により必要とされたい!」みたいな話だと思うんだけど、人により必要とされる為には人にまず与えなくちゃいけなくて、人に与える為にはまず自分の資本を整える必要があるから今とやるべきことは大して変わらない。いつかもっと人に何か分け与えてあげられるような人間になりたい。自分の何を分けてあげたら人は嬉しいのかさっぱり分からないけれど!

 

 

誰かと話すことが自分にとっていちばん嬉しいから、いつも話してくれる人たち、本当にありがとう。

over

 

 

 最近気温の上下動が激しくてかなりつらい。

 

 気温がいきなり上がったり下がったりすると、目が覚めて起き上がった時にめまいがするし何か食べると吐き気が止まらない。そんな状態がもう10年近く続いている。

 

 大学にいた時も梅雨に入るか入らないかの時期にも全く身体が動かなくて、外に出られない自分を責めて一日中自己嫌悪に苛まれるような、そんな感じだった。今考えると大学に行けないことよりも自分を責め続ける事の方がダメだった。

 

 この10年で夜12時前に寝て朝の7時に起きる事ができたのが数える程しかない(片方ならある)。いわゆる自律神経失調症なんだろうけど、病院に行っても「最近どうですか、はいそうですか、いつものお薬出しておきますね」と5分で終わってしまうのでどうしようもない。他の医療機関を受診しようにも、先ずかかりつけ医の了承を取らねばならず、「あなたの事を信用しきれないのでセカンドオピニオンをしてみようと思うので許可をしてください」と言うようなものなのでとてもやりづらい。

 

 自律神経失調症に陥ってる大学生なんて沢山いて、「病院行ってみたら?」と言われて、行ってみたらよく分からないような診断が出て、薬を沢山出されるからそれを飲んだら今までしていた生活が送れなくなる、みたいなパターンがあると思う。どちらにせよそういう人はどこかで壊れてしまうのかもしないが、そこから社会復帰できるかどうかは本人の強い意志というよりも、周囲の人間の協力や理解といった側面の方が大きいように感じている。

 

 「発達障害漫画の女性にはいつも理解してくれる彼氏がいる!」と怒っている男性をTwitterでよく見かけるけれど、ご多分に漏れず自分もその一人である。やっぱり自分の周りにいる、メンタルがやられがちな女性は大抵彼氏が途切れない。あれはあれで近くに人間がいすぎるとメンタルが揺さぶられすぎてしまうのかもしれないし、大変な事はたくさんあるのかもしれないけど、羨ましいと思ってしまう。

 

 彼氏/彼女がいることが全てではもちろん無いのだけれど、メンタルが弱い人間にとって、生活の中で困った時に連絡できる相手がいるのといないのとでは雲泥の差である。それなのに、パートナーを大切にしない姿を見てしまうと、価値観が全く違うのだなあと感じずにはいられない。例えるならメンタルが不安定な金持ちがいたとして、「お金なんか沢山あっても幸せになれない!」と私に相談したとして、それに共感しようとしてもなかなか厳しいものがある。私の認識としてはそんな感じである。

 

 男性にしても女性にしても、メンタルが不安定な人間は孤独になりやすくて、孤独な人間が病院に行ったとして、その先を考えてくれる人はいるのだろうか?と想像しはじめてしまうと、一概に「病院行ってみたらいいんじゃない?」とは言えなくなってしまう。

 

 普通の生活に対して要求されるハードルが今回のコロナウイルスの先行きの不安を通して高くなるのではないかと予想している。ハードルを越えられなかった人間がADHDとか、発達障害などの枠に収められていって、ますます社会復帰が困難になっていくのだろうな。

 

 (おそらく)うつを経験したことがない人たちに「夜寝る前にスマホ見ない方がいい」「外に出て日光浴びたら治る」とか言われるのが本当につらい。眠剤を入れて寝付くまでにいつも3時間も4時間もかかるのに、それまでずっと目をつぶってじっとしていなければいけないのを考えると気が遠くなるし、何日か前から睡眠のリズムをずらしたり、飲むと腹を壊すカフェインの類を飲まなきゃ午前中に外に出られない。

 

 その辺の発言を配慮して欲しいと他人に口に出すのは傲慢だけど、その次に出てくる言葉が「病院行った方がいい」なのでループのような状態である。自助努力で克服した人間が存在する以上、甘えが生じている、努力が足りていないという指摘は甘受すべきだけれど、もうこれ以上は他人の助けがないと厳しいと感じている。ここ最近は助けてほしいと手を伸ばした先でたらい回しにされているような状況だ。

 

 この前転職サイトのWEB面接を受けた時、アドバイザーに「いつ治るんですか?」と言われて、いつ治るんでしょうね、こっちが知りたいです、と震えながら返したら寛解の概念を教えてくれた。「いつ治るんですか?」という言葉をかなり引きずっている。その言葉を反芻しながらこの文章を打っている。

 

 

 


 

 

 

 何年も何年も日がな一日外に出ないよう日々を過ごしていると、精神を病んできて「もうダメかもしれない」と思うことがたくさんあって、実際このまま引きこもっていれば真綿で首を絞めるような状態でいずれ死ぬと思うんだけど、自粛期間中にみんな病んでて、Twitterでは闘争が終わらなくて、このまま死ぬのは自分だけじゃないのかもしれないと思うと気が楽になった。

 

 私の住んでいる所はベッドタウンで、アパートはその駅からさらに徒歩40分くらい歩く所にあるのだけど、自粛している間は前よりもむしろ人が増えて、一軒家の前では家族で遊んでいるし、工場の前ではバーベキューをしていた。

 

 この自粛期間の1か月ちょっとは本当に楽しかった。外に出られないことを自責しなくてもよくなったし、Twitterのフォロワーと映画を観たりもした。楽しいとなんにも書くことがない。ただ今日は体調が悪かったし、緊急事態宣言が解除されたこともあって、寂しさを思い出してしまったし、この期間の事について何か記しておかねばな、と思い立ったので書いてみた次第である。

 

 明けない夜はないというけれど、夜に住んでいる人間にとって夜から人がいなくなるのは寂しい。

 

 最近、朝と夜の境目として、新聞屋の話が出たことで鮮明に浮かんできたのだけれど、自分にとっての朝と夜の境目の象徴は除雪車だ。実家の前にあるデカい駐車場に何台か除雪車が置いてあって、それが冬の午前4時前くらいになるとゴゴゴゴと一斉に動き出す。窓を開けると寒いから絶対に開けないのだけれど、除雪車のランプの光と、けたたましいキャタピラの音が、自分にとっての朝だなと、その話と、おそらく元ネタであろうハヌマーンのNice to meet youを聞いて思い出した。

 

 

 

Nice to meet you

Nice to meet you

  • provided courtesy of iTunes

 

idol / Borderland


 推しが次々と結婚していく。


 ELLEGARDENのMarry meのサビがずっと頭の中で鳴り響いている。もう私くらいの歳になるとしょうがないのかもしれないけど、「結婚」という二文字がおどるのを見るたびに自分の人生が採点されているような気がして気が滅入ってしまう。

 そもそもそういった現状から目を逸らすべく、二次元のコンテンツやらにのめり込んでいったのに、そのコンテンツ側から現実のパンチを喰らう事になったのがここ最近の事だ。

 近々結婚するらしい、というのはなんとなく噂で聞いていて把握していたのだけれど、実際の報道だとか婚姻届けだとか、ウエディングドレス姿とかを写真で目の当たりにするとその現実感に打ちひしがれてしまう。

 考えてみるとずっと推しとの距離感が分からなかった。推しが存在する事自体が尊くて感謝するべきだというスタンスがあって、「推しは推せる時に推せ」みたいな言葉がある訳だけれどそんなお行儀よくなれなかった。

 何をした所で推しというコンテンツの先にいる一人の人間が、私の為に何かしてくれる訳じゃなくて、その無力感にただイライラだけが募るような、そして、皮肉な事にそのイライラ感だけが対岸の人間に伝わってるような、そんな感じだった。

 昔、ネットで結婚した声優に呪詛を吐き続けるようなオタクの姿を見た事があるけれど、ずっとそんな感じの気持ちで生活している。ひたすらに悲しい。結局勝手に期待して勝手に落胆してるに過ぎないのだけれど、惨めな事にその通りなのである。

 今のオタクはSNSで相互監視されているから、滅多に表立って推しへの呪詛の言葉を吐く人間は少ない。どれだけ忸怩たる思いがあっても表では「おめでとう」という言葉を発していて凄いと思う。推しの幸せを祈れないのなら本当に好きではなかったのだ。私はあなたの事は好きだけど、あなたの幸せは祈れない。あなたの喜ぶ事に私も喜べないのならそれは好きであるとは言えないんじゃないか?


 それで「本当は好きじゃなかったんじゃない?」と言われればその通りだし、結局私は相手の幸せより自分の気持ちを優先するような人間だった。推しは伴侶を得ただけで何も変わらないでそこにいるのに。


 きっと私の葬式に集客力は無いと思うけど、長い物語に浸っている間が人生で一番好きだから、もし自分が死んだらできるだけ長いシリーズ物の小説を棺桶の中に入れてくれ。






 この前、「彼氏が自分の事しか考えてなくて、相手の気持ちを考えられない。」という話を受けて「(彼氏目線に立って)私も自分の事しか考えられなくて、相手の気持ちを踏みにじってしまう事がある。心が痛い。」という返しをしてしまって、これは自分がただ気持ちよくなるためだけの返答だったなと反省した。


 これに対して「直さないの?」という突っ込みが他から入って固まってしまったのだけれど、果たして「自分の気持ちしか考えられない」というのは自分で気を付けて直るものなんだろうか?と思ってしまった。

 「人の気持ちが分からなくて人を傷付けてしまう」に対して、「直す」って言葉が使われるって事は、「相手をちゃんと観察していれば、少なくとも相手のして欲しくない事はわかるし、気を付ければ防げる」という考え方が根底にあるのだと思うけれど、全くそうは思えない。

 自分のような、気付いたら人の気持ちを踏みにじっているような人間は、気をつかっているつもりでもそれが相手にとってとんだ迷惑だったりするし、だからといって何もしないでいると、「何もしてくれない」と言われるような、そんな日々で、毎日人を傷つけているような気がしている。


 ただ、傷つける/傷つけられるのリスクを背負わないと、うわべだけの人間関係になってしまって、これもいけない。結局「あなたなら傷つけられてもいい」と相手に思えるかどうかであって、それがイコール愛情なのかなあと思ったりもする。

 「傷つけられた!」と感じたら全力で殴りかかってくるような人がいて、話し合おうとしても相手は自分の考えを認めさせる以外に落とし所が無くて、喧嘩をするにしても私は喧嘩が苦手なのですぐに負けてしまって、迷っているうちに更に殴られてしまって、そんな感じで去年は痛い目に遭った。

 「話し合えばわかる」と口にする全てが、相手の話を聞く気なんか更々無いと思ってしまう。自分の考えを押し付けて、受け入れてくれればそれで良し、受け入れてくれないなら「あなたは人の気持ちを全然考えない人だ!」と罵ればいいだけなので、あなたが関わる価値がないと考える人間に対して取る戦略としてこれ以上の合理的な判断は無いと思うし、世の中もそういう感じになってると思う。

 私はそういう「自己防衛」を良しとは思わないし、私自身のルールに従って話をしていて、それに相手も従って欲しいと思うのだけれど、それは私の我儘に過ぎない。例え隣にいる相手が「自分が不愉快だと思った相手には執拗に殴り返していい」というルールで生きていたとしてもそれを責める事はしない。

 ただ、相手を屈服させる事を目的とした話し合いは永遠に続く殴り合いと似たようなもので、本当に不毛だから、どこかで折り合いを付ける事を念頭に置かなくちゃいけなくて、それを念頭に置いた上で適当に傷付け傷付け合いながら話し合いをする事が「互いを尊重する」なんじゃないかと思っている。

 ただ万人に「互いに尊重する」事を期待するのは甘えであって、あまりにも相手がおかしな事を言っていたとして、それを突っぱねるだけの自分が無いといけないのだけれど、本当に相手がおかしいのか、はたまた私の考えがおかしいのか、私がいつも「おかしい」と言われる側の人間だから考えてしまう。その間にも殴られる。

 自分の考えに責任を取りたくない。そういう態度がこの文章の中の「思う」「考える」「気がする」の多さに現れていると思うし、そこにつけ込まれる事で自分の精神が大きく削られる原因になってしまうのだろう。原因は分かっているけど具体的な解決策が出てこない。自分はこれからどうしたらいいと思います?



Marry Me

Marry Me

 誰かと喋るのが自分にとって1番の誕生日プレゼントなので、何かコメントを投げてくださると嬉しいです。

滅私


 Twitterの下書きが溜まってきたので供養する。


  • Vtuberが炎上する事は多々あるけど炎上した後、自罰的になる人と他罰的になる人がいて、他罰的になる人間には距離を置こう、という風になるけど自罰的になる人間にはすっかり共感してしまって炎上になんて負けるな応援するぞ、という風な気持ちになってくる。‬

  • 嫌いなVtuberがいて(自分はVtuberにハマっているので)、度々コラボで登場しては吐きそうになるんだけど、その人たちを「嫌い」だと表明しても何らいい事がないのでTwitter上とか人のいる前では黙っている。

  • 人間関係、という枠で人を囲ってしまうのをまずやめるべき、目の前にいるとか、これをみてる人の事を考える事だ。

  • ‪なんでひとつも謝りもしない人間に「簡単にごめんって言うけどそれって自分のために謝ってるよね」みたいな事言われなきゃいけないんだろう?‬

  • 「優しい」「いい人」って「取り柄がひとつもない」「弱い」と同意義だと思っている。もう2019年の日本だとバッドステータスの一種なんじゃないか?‬

  • ‪人の根源的な欲求として、人を殴りたい、叩きたいというものがあると思うんだけど、2019年日本だと殴られ損、殴り得みたいな所があるから本能に従って人をどんどん殴って行った方がいいと思うんだよな。‬

  • ‪全力で身体を振り回す事のできる場所がスポーツ以外で見当たらない。それ以外は全部窮屈に感じる。‬

  • ライブで「周りの人に気を遣いながら手を上げる」のがめちゃくちゃに難しい、正直ライブでそれしか考えてない‬

  • ‪小さい頃、口喧嘩が上手い奴がいて、自分は強く言われると何も言い返せなくてそいつの事を殴って、当然手を上げた方が悪いので先生を呼ばれるか、悪い時は集団で殴り返された記憶があって‬、それはそれで仕方ないとは思うんだけど、大人になって口喧嘩が上手い奴が先行して殴るようになって(精神的肉体的問わず)、かつその責任転嫁を他人に押し付ける、みたいな事が多くて、‬そういう人たちって、手を出したらボコボコに殴られた、みたいな経験が果たしてあるのかなあ、大人になってもう全力で殴り返される事なんてなくて、殴り得みたいに、なってないかなあと、そう思う

  • とんねるずのリアル野球盤を見ていて、ゴルゴ松本が相変わらず「デレク・ジーター打法!」ってやってたけど、もはやデレク・ジーターって誰だよって感じだ‬よな。

  • 確かに麻雀界ってMリーガーの女性もかなり高齢化してきてしまって、新しい若い広告塔(と言ったら言い方が悪いけど)を探している状態だから渡りに船なのかもしれんね →天鳳にできることは、他の方が入ってくる前に、この独占領域を保護してあげることだと考えています。‬

(夜桜たまの引退後、天鳳から寄せられたコメントへの引用RT)

  • ‪御伽原江良ちゃん(呼び方を決め損ねてる)の事がめちゃくちゃ好きなんですけど、どれくらい好きというと、‬‪例えば同じクラスに江良ちゃんがいたとしたら、一緒のクラスになって夏休み前くらいに告白して、振られたけど卒業後もズルズル引きずるだろうなって妄想をするくらい好きです。‬

  • ‪ロアちゃんが叫び声出した後とか地声っぽい声出した後に「汚い声出ちゃった!」って言うの、人間が見えていいんだよな……‬

  • ‪「ぶっちゃけ」って表題から出てくるのって大体遠回しに悪口じゃない?そもそも「本音をあけすけに言う事」がそのままコンテンツになるのがすごい。‬

  • 清原和博のホームラン集を見ているけど、あんなアウトローのボール球をライトスタンドまで運べるんだったらあれだけホームラン打てるよなあ、小学生の頃から清原が好きだったし、今になってそれを撤回する気はさらさら無い‬

  • ‪ ‪天気の子を観に行って1週間が経つので、そろそろ落ち着いて話せると思うんだけど、物語の本筋とは関係ない所がめちゃくちゃ気になってしまって集中できなかった。本名役の佐倉綾音花澤香菜とか。協賛企業の数々とか。前作の登場人物がめちゃくちゃ出てきた所とか。ノイズが多すぎるんだよなあ……‬

  • ‪推しとの距離のはかりかた 僕自身イマイチわかってないけど ‪君とはずっとはからなくていい 距離をみつけたいんだよな そう思うんだよ ‬信じたいんだよ‬‪ 寄り添いたいんだよ ‬‪僕の声が 届くといいな‬

人との距離のはかりかた

人との距離のはかりかた

  • plenty
  • ロック
  • ¥204

「ち」と「さ」の差

 

 

  • 当たり障りのない事を書こうと思う。感情的に文章を書くと、長い文章を書けるので分量的にそれっぽくなってその時はそれでいいやと思って投稿してしまうのだけれど、後日振り返って誰かがこの文章を見るのだ、と考えた時に…いや考えたくもないな。

 

  • 誰かがこの文章を見るのだ、といつも意識して書いているのだけど、書く時は死ぬほど自己肯定感が低下していて、見た者を傷つけて自分の傷痕を付けようと思っている。書いたその当時は全員死ねと思っているけど、毎回振り返って恥ずかしくなって、言い訳みたいな文章を出すような感じで、今がその期間だ。

 

  • 自分の内面の事について書くと怨恨が止まらないので、できるだけ今回は自分の外側にあるものについて書きたい。といっても自分の生活なんてバイトの個別指導の塾講師での小学生や中学生のやりとりと、病院と、バーチャルYoutuberの事くらいしかない。

 

 


 

  • 今まで生徒に部分的に丸付けを生徒に任せていたのだけれど、全面的に丸付けを自分でやるか又は生徒に丸付けをさせて後で自分で全部チェックをしている。丸付けを全部自分でやる、というのは本当に本当に手間なんだけれど、かなり多くの子供が間違った漢字や英語のつづり間違えに丸をしていて、「この子は間違って丸をしてしまうから全部自分でやろう」とやっていたらほとんど全部自分で丸付けをせざるを得なくなった。自分は中学、高校、大学と英語をやっているから「d」と「b」を間違えるような間違いは滅多にしないのだけど、中学生の段階だと「それ発音したら絶対に違うでしょ」という間違いが散見される。「ち」と「さ」とか、「a」と「d」の違いについて、自分にとっては常識のように思えてしまうけれど、気を付けていないと間違えるような子供にどうすれば間違えないようになるか、都度指摘をする以外に方法が思いつかない。下手すると揚げ足取りのような感じになってしまう。文法以外には教える事ができないし、文法が出来ているのに/読解ができているのに、識字の問題で点数が伸びないと、本人も必要以上に「わかってない」と思うだろうし、自分としても勿体ないと感じてしまう。

 


 

 

  • 「消臭剤の匂い」というものがあると思う。消臭剤の匂いが強烈に香ってくる人間はお風呂入ってないんだな、とちょっと思ってしまうし、消臭剤の匂いが空間中に広がっていると、まさに「臭いものに蓋をする」そのものだな、と思ってしまう。消臭剤がなかった時代はこの匂いがいい匂いだったんだろうか?もう人工的なフローラルの匂いを嗅いでも、「蓋」だな、としか思えない。じゃあ他人のふり見て我がふり直せ、自分の臭いが気になってくるんだけど、自分の臭いについて人を介さないと知る事ができない。毎日風呂には二回入るし、口も毎食後に歯磨きをして、舌ブラシをして、洗口液でゆすいでるけど、自分の臭いがどうなってるか不安なものは不安である。
  • そう言うといつも「潔癖症?」と聞かれる。自分は他人に「臭い」と思われるのが嫌だと思って(他人に危害を加えるんじゃないかと思って)頑張っているだけな一方で、潔癖症の人間は、汚い物を触る事全てに対して抵抗がある(自分が被害を被るんじゃないかと思う)のだと思うので、その辺が違うんじゃなかろうか。まあ些細な差なんだろうけど。

 

 


 

 


 

  • 兎鞠まりちゃんのフルトラッキングの技術が凄まじい。正直自分はUnityの詳しい事は分からないんだけど、ホロライブの技術がすごいと我々VTuberのオタクは3D配信の度に騒いでいるけど、兎鞠まりちゃんとか、マグロナちゃんの辺りのグループはそれを独力で手に入れているように見える(「見える」というだけで実際はなにかしらの協力があるのかもしれない)。にじ3Dについてうだうだ言っている内におじさん達はここまで到達してしまったぞ!

 

 

 

 

  • ゲーム画面を奥の方に置いて、ゲームしている本人はYoutubeの画面から見て斜め後ろを向いて画面の向こうのリスナーと一緒にプレイをしているようにする、という工夫も最初に見た時膝を打つ思いだった。基本的に自分はにじさんじの放送を見る事が多くて、キャラクターの顔面と正対するような状態が多いのだけれど、斜め後ろを向くだけでここまで没入感が違うのかと感心した覚えがある。マグロナちゃんといえば「バ美肉」に代表されるようにボイスチェンジシステムの発明が有名だけれど、こうした配信画面の工夫もすごい。当の本人はさっき手詰まりだ…みたいな事を言っていた。どこまで進化するのだろうか?

 

 

 

 

  • これは今日の配信から。ゲームの画面をテレビのオブジェクトに埋め込んで、カメラを自由に移動させる?この状態を上手く説明するだけの語彙が無い。空間にあるカメラを持って移動させる、みたいなやつはねこますさんの配信でも見たけれど、あれをどうやって説明すればいいんだろう?

 

  • 自分はバーチャルユーチューバーを、いわゆる四天王から知って、その次にバ美肉に行って、そこからにじさんじが爆発的に増えてそっちを多く追うようになってしまって、バ美肉勢を見る事が少なくなってしまったのだけど、改めて見てみると恐ろしい事をやっているような気がする。実際何をやっているかこちらからは分からないんですけどね!わかんないけどすごい!

 

  • 一年前には見ていたど今はあまり見ないなあ…という配信者がかなりいると思うんですが、再度見るようになった中でアズリムちゃんが今アツいです。一年経って、自分の裁量でできる範囲が広がった結果、アズリムちゃんの独特の感性が発揮されてきたように思います。一人結婚式が近頃の配信の中でもかなり尖ってて面白かった。見てください。

 

 

 

 

他に僕が知らない、面白い配信があったらDMで教えてください。

「キスマイBUSAIKU!?」を見るのが怖い

 

 

・さっきゴミ捨て場に段ボールを捨てに行ったんだけど、ゴミ捨て場の中に新聞紙とコロコロコミックが捨ててあって。自分のアパートはせいぜい1Kの一人暮らし用のアパートだからこのアパートの中に子供がいるのか…?と思ってちょっと考えたけれど、ちょっと向こうに行った所に一戸建てがあるからそこのゴミか。自己解決した。

 

・「キスマイBUSAIKU!?」を見るのが怖い、という話を何回もしている。ついでに言うとバチェラーも怖い。なんならテラスハウスも怖かった。恋愛をエンタメとして見られない。この事を上手く人に説明するのは難しいんだけど、恋愛におけるアプローチって他人から見るとあられもない状態で、そのあられもない姿を他人に見られて、かつあれやこれや外から言われるのに耐えられない。のかもしれない。

 

・先のブログで挙げたような、神経症とか強迫観念が深刻化していった結果、女性と二人で飲みに行ったり出かけたりするのが辛くなってきてしまった。今まで男性と比べて女性の友人が多くて、遊びに行くとしたら女性の方が多かったのだけど、「お店を予約しないといけないだろうか」「予め出かけていくプランを考えておかなければならないだろうか」「全部奢らなければならないだろうか」とか、ただの友人相手でも考え過ぎてしまって、もうにっちもさっちもいかなくなってきてしまった。普通に素直に相手に訊くのが一番いいとは思うけれど、どこまで細かく訊いていいものか、これくらい訊いてもうざったく思われないか、とか考え過ぎてしまう。

 

・「恋愛市場」と言うくらいだから、多分2019年の恋愛とは資本主義経済みたいなもので、男性の資本力と女性の性を交換するようなものだと思う。自分は資本力(経済力とか外見とか、それに付随する性格とか)に自信がなく、その「市場」に自分の身を置くとしてボロボロに叩かれる未来しか見えない。キスマイBUSAIKU!?で出てくる、ブサイクのテロップが頭の中に浮かぶ。その「市場」に自分を売り込むという資格がないように思える。

 

・そういう資本力を自分に期待してほしくなくて、恋愛対象として見られたくないのだけど、反転すると女性が性的な対象として見られるのが嫌だから恋愛対象として見られたくない、という話と類似していると思う。みんなそういう、人を値踏みしてマイナスをしていくような恋愛をして、疲れないのだろうか?多分男性は女性を性的に消費していく事、女性は男性のあら探しをする事が動物的な本能だと思うので、一生そこに縛られて生きていくのだと思う。

 

・でも普通に恋愛はしたい。人生の目標が結婚することなので。でも人生の目標が「結婚する事」の人と結婚したいか?と言われればお察しである。

 

・もはや「いい人」「優しい人」にバリューがあるとは思えない。自分はよく「優しい」と言われるが、それってもはや「取り柄がなにひとつない」と同義であると思うし、もはやそれってウイークポイントのひとつなのでは?好きなタイプを訊かれると「優しい人」と答えられる事が多いと思うけど、そこで求められてる事って、優しさからはかけ離れた何かだよなあと思う。そもそも自分は「優しい人間」ではなくただただ「弱い人間」なのにオブラートに包んでそう言ってくれてるだけじゃないか?それが答えじゃん?

 

・高校の同級生がLSDで逮捕された。以前逮捕されたのはあまり話した事がない(相互に面識はあるはず)人間だったけど、追加で自分と関わりがあった人間が逮捕されたのが今日分かった。自分はそいつの事が好きだし、友達とは言えないにしろ、自分の心の中で特別な位置にいる人間だ。去年あまりにも鬱になってしまったブログを見て連絡してきてくれて大丈夫だと言ってくれた事は向こう10年は忘れない。何か力になれればいいと思うけれど、何の力もないし口だけだ、、、

 

・「棒切れで人を殴るのはたまらん愉悦があるから、この事を認め、この欲求とどう向き合っていくかの過程が世界史の本質だといっても過言ではない」みたいなツイートを見て、本当にそうだと思って何度も見返す。「棒」が「言葉」とかに置き換わるだけで現代にもあてはまるからすごい。けど今は殴られた方が声を上げたら殴った方が被害者みたいな立ち回りをするし、そうなると殴られた側が泣き寝入りになるか、殴られた側がコミュニティを巻き込んで双方被害者になるかしかないので、先攻で殴った方がお得なんじゃないか?とすら思えてくる。

 

・小学校の頃、口喧嘩で負けて殴ってしまう事が多々あって、そうして殴られた相手が仲間を巻き込んで、そいつらに返り討ちにあってボコボコにされる事が多々あって、まあ最初に殴った自分が悪いんだけど、他の人間は誰かを殴ったら(身体的に)ボコボコにされた経験とかあるのかなあ。言葉で誰かを殴っても殴られても実質的な痛みを感じないからその辺鈍くなってるんじゃないかなあ、その内言葉と言葉の争いから、武器と武器の争いが始まるんじゃない?人を殴るのはやっぱり楽しいので。

 

・ライブで「周りの人に気をつかいながら手を上げる/ノる」のがはちゃめちゃに難しいし、ライブ中そのことばかり考えている。人々は「一体になる」事にエクスタシーを感じているらしいけど全く共感できない。ライブのどういう側面が、人々のストレスを解消させているんだろう?

 

・全力で身体を振り回す対象がスポーツ以外に見当たらないし、スポーツをやるためには社会性が要るので難しい。さっき「人を殴るのは楽しい」という話をしたばかりなので、ボクシング…ボクシングなのかなあ。

 

 

何度も見返すツイートとか、記事とか、ありますか?

自分はこれです。

 

ルールを目的にしない創造的な日本へ――シンガーソングライター 大森靖子 週アスPLUS

https://weekly.ascii.jp/elem/000/000/179/179198/

 

 

・御伽原江良ちゃん(あまり話題に出すことがないので呼び方を決め損ねている)の事がめちゃめちゃ好きで、どれくらい好きかというと、例えば同じクラスになって3か月くらいして好きになって夏休み前に告白するんだけど振られてなんとなく気まずくなって(友達としてはちゃんと付き合ってくれる)、でもズルズル卒業後も好きでTwitterとか見ちゃう、みたいな妄想をするくらいには好き(実体験と重ねてる) 誰かを理想化して勝手に分析できたような気になって、それをその相手に見られると目も当てられないですよね…夢女子のメンタルに近いような気もするので滅多にTwitterの反応しないし、コメントも打たないけど。

 

・名取さなと月ノ美兎は本当に生まれてきてくれて、この日本という地にこんな人間が存在してくれてありがとう、という気持ちである。月ノ美兎の凄さはもう語り尽くされてると思うので、名取さなの凄さについていつか自分でまとめてみたいですね。

 

 

・昔、彼女と別れるか別れないかの時に、「あなたに好かれるように祈る」という事を確か言って愛想を尽かされた事がある(多分もっと情けない感じだった)んだけど、追い込まれて自分から出てきた言葉に数年経ってもやはり共感してしまう。誰かに好かれるか好かれないかという事は結局願いとか祈りの類でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。誰かにとっては努力次第で変えられると思う物なのかもしれないけど、やはりどうしようもないと思う。とはいえそれを別れ際の彼女に言ってしまうのは、「私はあなたと一緒にいる事に対して努力する気は更々ないですよ」と言ってるようなもので、普通にまずかったよなあと今振り返ると思う。

 

・こうやって文章を並べてみると本当に自分は好かれるに足らない人間だなあと思うし、何か虚飾をするにも何が他人に受けるか方向性も全く想像がつかないのでありのままを曝け出すしかない。ありのままの私を好きになってくれ、という欲望がある一方で自分の中にある属性を勝手に自分の中で創って、それに同情して好きにならないでくれ、とも思う。こういう面倒くさい自分の事を愛してくれとまでは言わないから、せめて叩かないでほしい。