「キスマイBUSAIKU!?」を見るのが怖い

 

 

・さっきゴミ捨て場に段ボールを捨てに行ったんだけど、ゴミ捨て場の中に新聞紙とコロコロコミックが捨ててあって。自分のアパートはせいぜい1Kの一人暮らし用のアパートだからこのアパートの中に子供がいるのか…?と思ってちょっと考えたけれど、ちょっと向こうに行った所に一戸建てがあるからそこのゴミか。自己解決した。

 

・「キスマイBUSAIKU!?」を見るのが怖い、という話を何回もしている。ついでに言うとバチェラーも怖い。なんならテラスハウスも怖かった。恋愛をエンタメとして見られない。この事を上手く人に説明するのは難しいんだけど、恋愛におけるアプローチって他人から見るとあられもない状態で、そのあられもない姿を他人に見られて、かつあれやこれや外から言われるのに耐えられない。のかもしれない。

 

・先のブログで挙げたような、神経症とか強迫観念が深刻化していった結果、女性と二人で飲みに行ったり出かけたりするのが辛くなってきてしまった。今まで男性と比べて女性の友人が多くて、遊びに行くとしたら女性の方が多かったのだけど、「お店を予約しないといけないだろうか」「予め出かけていくプランを考えておかなければならないだろうか」「全部奢らなければならないだろうか」とか、ただの友人相手でも考え過ぎてしまって、もうにっちもさっちもいかなくなってきてしまった。普通に素直に相手に訊くのが一番いいとは思うけれど、どこまで細かく訊いていいものか、これくらい訊いてもうざったく思われないか、とか考え過ぎてしまう。

 

・「恋愛市場」と言うくらいだから、多分2019年の恋愛とは資本主義経済みたいなもので、男性の資本力と女性の性を交換するようなものだと思う。自分は資本力(経済力とか外見とか、それに付随する性格とか)に自信がなく、その「市場」に自分の身を置くとしてボロボロに叩かれる未来しか見えない。キスマイBUSAIKU!?で出てくる、ブサイクのテロップが頭の中に浮かぶ。その「市場」に自分を売り込むという資格がないように思える。

 

・そういう資本力を自分に期待してほしくなくて、恋愛対象として見られたくないのだけど、反転すると女性が性的な対象として見られるのが嫌だから恋愛対象として見られたくない、という話と類似していると思う。みんなそういう、人を値踏みしてマイナスをしていくような恋愛をして、疲れないのだろうか?多分男性は女性を性的に消費していく事、女性は男性のあら探しをする事が動物的な本能だと思うので、一生そこに縛られて生きていくのだと思う。

 

・でも普通に恋愛はしたい。人生の目標が結婚することなので。でも人生の目標が「結婚する事」の人と結婚したいか?と言われればお察しである。

 

・もはや「いい人」「優しい人」にバリューがあるとは思えない。自分はよく「優しい」と言われるが、それってもはや「取り柄がなにひとつない」と同義であると思うし、もはやそれってウイークポイントのひとつなのでは?好きなタイプを訊かれると「優しい人」と答えられる事が多いと思うけど、そこで求められてる事って、優しさからはかけ離れた何かだよなあと思う。そもそも自分は「優しい人間」ではなくただただ「弱い人間」なのにオブラートに包んでそう言ってくれてるだけじゃないか?それが答えじゃん?

 

・高校の同級生がLSDで逮捕された。以前逮捕されたのはあまり話した事がない(相互に面識はあるはず)人間だったけど、追加で自分と関わりがあった人間が逮捕されたのが今日分かった。自分はそいつの事が好きだし、友達とは言えないにしろ、自分の心の中で特別な位置にいる人間だ。去年あまりにも鬱になってしまったブログを見て連絡してきてくれて大丈夫だと言ってくれた事は向こう10年は忘れない。何か力になれればいいと思うけれど、何の力もないし口だけだ、、、

 

・「棒切れで人を殴るのはたまらん愉悦があるから、この事を認め、この欲求とどう向き合っていくかの過程が世界史の本質だといっても過言ではない」みたいなツイートを見て、本当にそうだと思って何度も見返す。「棒」が「言葉」とかに置き換わるだけで現代にもあてはまるからすごい。けど今は殴られた方が声を上げたら殴った方が被害者みたいな立ち回りをするし、そうなると殴られた側が泣き寝入りになるか、殴られた側がコミュニティを巻き込んで双方被害者になるかしかないので、先攻で殴った方がお得なんじゃないか?とすら思えてくる。

 

・小学校の頃、口喧嘩で負けて殴ってしまう事が多々あって、そうして殴られた相手が仲間を巻き込んで、そいつらに返り討ちにあってボコボコにされる事が多々あって、まあ最初に殴った自分が悪いんだけど、他の人間は誰かを殴ったら(身体的に)ボコボコにされた経験とかあるのかなあ。言葉で誰かを殴っても殴られても実質的な痛みを感じないからその辺鈍くなってるんじゃないかなあ、その内言葉と言葉の争いから、武器と武器の争いが始まるんじゃない?人を殴るのはやっぱり楽しいので。

 

・ライブで「周りの人に気をつかいながら手を上げる/ノる」のがはちゃめちゃに難しいし、ライブ中そのことばかり考えている。人々は「一体になる」事にエクスタシーを感じているらしいけど全く共感できない。ライブのどういう側面が、人々のストレスを解消させているんだろう?

 

・全力で身体を振り回す対象がスポーツ以外に見当たらないし、スポーツをやるためには社会性が要るので難しい。さっき「人を殴るのは楽しい」という話をしたばかりなので、ボクシング…ボクシングなのかなあ。

 

 

何度も見返すツイートとか、記事とか、ありますか?

自分はこれです。

 

ルールを目的にしない創造的な日本へ――シンガーソングライター 大森靖子 週アスPLUS

https://weekly.ascii.jp/elem/000/000/179/179198/

 

 

・御伽原江良ちゃん(あまり話題に出すことがないので呼び方を決め損ねている)の事がめちゃめちゃ好きで、どれくらい好きかというと、例えば同じクラスになって3か月くらいして好きになって夏休み前に告白するんだけど振られてなんとなく気まずくなって(友達としてはちゃんと付き合ってくれる)、でもズルズル卒業後も好きでTwitterとか見ちゃう、みたいな妄想をするくらいには好き(実体験と重ねてる) 誰かを理想化して勝手に分析できたような気になって、それをその相手に見られると目も当てられないですよね…夢女子のメンタルに近いような気もするので滅多にTwitterの反応しないし、コメントも打たないけど。

 

・名取さなと月ノ美兎は本当に生まれてきてくれて、この日本という地にこんな人間が存在してくれてありがとう、という気持ちである。月ノ美兎の凄さはもう語り尽くされてると思うので、名取さなの凄さについていつか自分でまとめてみたいですね。

 

 

・昔、彼女と別れるか別れないかの時に、「あなたに好かれるように祈る」という事を確か言って愛想を尽かされた事がある(多分もっと情けない感じだった)んだけど、追い込まれて自分から出てきた言葉に数年経ってもやはり共感してしまう。誰かに好かれるか好かれないかという事は結局願いとか祈りの類でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。誰かにとっては努力次第で変えられると思う物なのかもしれないけど、やはりどうしようもないと思う。とはいえそれを別れ際の彼女に言ってしまうのは、「私はあなたと一緒にいる事に対して努力する気は更々ないですよ」と言ってるようなもので、普通にまずかったよなあと今振り返ると思う。

 

・こうやって文章を並べてみると本当に自分は好かれるに足らない人間だなあと思うし、何か虚飾をするにも何が他人に受けるか方向性も全く想像がつかないのでありのままを曝け出すしかない。ありのままの私を好きになってくれ、という欲望がある一方で自分の中にある属性を勝手に自分の中で創って、それに同情して好きにならないでくれ、とも思う。こういう面倒くさい自分の事を愛してくれとまでは言わないから、せめて叩かないでほしい。