wowakaが死んだ

 

 

題名の通り。

 

「好きな人には今すぐ好きと伝えた方がいい」と言うけど果たして本当なんだろうか。

 

ネット上の関わりなんて希薄なものだから無くなる時は一瞬で無くなってしまうから、感謝やいい所は積極的に伝えた方がいい、みたいな言説はよく聞くけれど、自分はネット上に拘らず、人気者に何か話しかけて何か感情を相手に抱かせる、という想像がとてもし辛い。例えば自分はVtuberの生放送によく行く訳だけど、コメントは全くしないし、ライブに行っても声を出して何かする、という事からは縁遠い。

 

自分は何にでも相手のリアクションが無いと苦しいと思ってしまうんだけど、それって他の人間もそうなんじゃないか。自分が声を上げても相手が何にも返してくれない事に対する苦しさみたいなものは当然皆あるものだと思っているけど、ライブとかだと相手のリアクションが無い事へのストレスが霧散するのは自分と他人ではどういった意識の差があるんだろう。

 

人気者が居なくなって「感謝を伝えておけばよかった」とか「作品への感想を伝えればよかった」とか言う人間は多いんだけど、果たしてその感謝だとかは居なくなる前に言ったとして伝わったのかどうか、塵も積もれば、という話があるけど塵でもいい、と思えるのは余程の聖人か、余程古くから推してきて「私が育てた」と言える人間だけなんじゃないかと思う。人気者の前で、「私は応援する有象無象の1人でいい」って言うのは簡単だけど、それって詭弁じゃない?やっぱりどうやっても自分は人気者と1対1でコミュニケーションが取りたい。1対1でコミュニケーションが取れない相手に対しての愛情なんてたかが知れてると思ってしまう。だからあなたの周りにいる好きな人間には今すぐ好きと伝えるのがいいのかもしれないけど、人気者に対して自分は一歩引けてしまう、ただの臆病な話だ。

 

wowakaは死んだけど自分にはどうする事も出来ない。確かに大好きだったけど別に証明する何かを持っている訳ではない。心の中でいくら好きだと思っていていても大きな声を持っている人や綺麗なイラストを描ける人、側にいる人には敵わない。そういった表現方法を持っている人間を前にして、「(もしかして伝わるかもしれないから)好きな人間にはすぐに好きだと言った方がいい」と言われるのは途轍もなく虚しい。

 

 

キモオタクからオタクを抜いたらキモしか残らない

 

 

誕生日です。祝って下さい。

 

 

もう誕生日と言って歳を重ねるのが怖い歳になりました。もう年齢を直視したくないので来年からは誕生日の更新を辞めようか迷っています。そもそもこの歳になって誕生日を祝って、なんて子供すぎるか。「君は全然若いし、可能性がある」なんて言い分はもーーーう聞きたくない。英会話のチャットアプリで年齢聞かれて職業聞かれてこういう話をする流れになっちゃうけど、初対面の人間、職業聞きがち。

そりゃあ初対面、聞くこともないし、って言い分も分かるけどそれが対面じゃなくてネットの世界でのはじめましてでも「職業は?」「どこに住んでいらっしゃるんですか?」「年齢は?」って初めに聞かれるんだからちゃんちゃらおかしい。リアルの世界に毒されてる。ネチケットはどうした。

 

 

そんなこんなで無職です。大学は今期で辞めます。

 

 

大学に段々行かなくなって、もうどんどん行くのにハードルが高くなって、今ではもう大学前の方向に行くだけでも吐き気がするようになりました。普通に困る。適応障害の域だなと思ったけど特に今までと処方は変わる訳でもないし、それはそのまま環境を変える方にシフトしていった方がいいという判断です。

思えば「友達がいない」「周りがきらきらしていて羨ましい」この二点で勝手に病んで追い込まれていったという感じでした。特に大学に行っていた最後の方は大学に誰も知り合いが居ず、また継続して行くことが出来ないので友達が作れない、というループに陥ってました。

 

今回友達とは「生活の中で連続的に話したりチャットしたりする人」と定義しておくんですが、とにかく生活の中で対等に会話する人間がここ数年いませんでした。本当は人と喋りたい自分にとってコンビニ店員くらいしか数年喋ってないと、本当に気が滅入ってくるんですよね。

かといって前述しました、「初対面の時相手の身分を詳らかにしないといけない問題」のおかけで初っぱなからタブーがある人間として扱われてしまって仲良くなれない、みたいな。

 

つまり

体調を治して社会復帰したい

社会性を得てそこから不安障害を克服したい

しかし社会的肩書がないため社会性を得るための健康な交友関係が得られない

更に精神的に参ってしまう

不眠/生活リズムの崩壊

 

みたいなループが長い間行われてきたんですが、どうも上手くいかないですね。「環境を変えてみる」が1番の解決かと思ってはいるのだけど、茫漠すぎてよく分からない。とりあえず通信制の大学に行く準備はしています。前年行った留学にある程度手応えがあったので、ワーホリに行ってみたいとは思うものの、大学にはこの通り行けないので、誰かどこかそれについての情報だったり、相談に乗ってくれる所だったりを書いてくれると助かります。これは本当に、見てくれた人で詳しい人、誰かお願いします。お金もないのでそこもどうしようって感じですね。

 

最近は存在するだけで不快なおっさんについて考える事が多くなりました。自分はそう遠くはない未来(または既にそうかも)そうなってるからです。社会に存在するだけで邪魔、と言われて、でも死んではいけない、と言われて、でも誰も助けてくれる人がいなくて、自分の事を知ってる人は気持ち悪いから避けるし、仮にそうなったとして、どうやって生きていけばいいんだろうと惨憺たる気持ちになります。日本の若者はよく知らない発展途上国の子供ばかり助けるし、天は自らを助くものを助く、といいますが、結局は愛嬌の差なんだろうな、と思います。助けたくなるかどうか。天からかわいくて愛嬌のある外見が降ってくれば形式的でも手が伸びると思うのでそう祈るばかりです。

 

 

 

ところで2017年が声優沼にハマった歳だとしたら2018年はVtuber沼にハマった一年でした。ハマった、と言っても精神的に参っている時に生放送のアーカイブを聞いたり移動中に聞いたりするだけなので、別にお金落としたりしなくていいし、いい趣味ですね。ただ1放送1時間はするので切り抜きの動画ばかり見ています。Vtuberも所詮生主文化の延長なので、声優、Vtuber(生主)と、2次元のキャラよりやっぱり生身の人間の方に焦がれてしまってるのが拭えませんね。名取さなちゃんかわいい。

 

後はずーーっと漫画アプリだったり、レンタルしてきて漫画を読んでます。最近はkindleがあるので今積んである本を売って必要なものだけ電子書籍で買い直す、という事をしています。kindleは定期的に0円で買える漫画があるので、それをひたすらダウンロードしていたらもう1000冊を超えてしまいました。

 

塾の講師のバイトはまだ続けていて、大学に行かない分多く入る為に色んな教室に行く事が多くて、同じ子を継続してみてあげる事ができないのが少し辛い所です。小・中学生に承認欲求を依存してメンタルを維持している、というのが今の状況なんですが、あまり健康的ではないですね。

 

 

また話は変わるんですが、Twitterで「人間は本来、棒で人/物を殴りたいが、そうはできないため代替のものを色々発明している」みたいな記事を見て、これが今年一のなるほどだった気がします。自分が幼少期の頃はとにかく棒で物を叩いたり、鋭利な棒で人にキレて殴りかかっていた思い出が小学生の思い出として真っ先に思い浮かぶんですよね。承認欲求がちゃんと満たされてる人間の事は知らないんですけど、人間って不健康になると何かを叩きたくて仕方なくて、それが今肉体的な暴力性のある事は一切できない状況下にあるので、言葉の暴力が蔓延ってる状況にあるのかな、と。言葉の暴力はなんなら一発殴られるよりもしんどいので、どちらか選ぶなら一発殴る方にしたいなあと思いました。(勿論教育現場では暴力は御法度ですが) 

 

 

 

「お前はお前」と頭の中では理解してるんですけど、いざストレスのかかる場面に出くわすとその前に胃の辺りがキュッとなっちゃってダメですね。ストレスを解消する為に、良くも悪くも人間関係に身を投じざるを得ないと薄々分かってきたので、その手助けをしてくれる人が欲しいです。最近は身体が弱くてお酒も飲めなくなりましたが、時間さえ合えば、どこにでも行きますので、何か食べにでも行きましょう。

 

 

 

 

 

ウワ〜〜〜〜〜〜寂しい〜〜〜〜〜〜

 

 

って感じの毎日。 

ここ何ヶ月かまともに外に出て友達という友達と喋ってないかもしれない。そりゃネットではリプライを送り合ってる人も日常で会う訳じゃないし、友達と言ったら友達なんだがなあ。塾のバイトで小・中学生と話して、そこで承認欲求を委託してると言ってもいいかもしれない。小・中学生に承認欲求を委託してるおっさんがいるってマ?って感じだよな。でも本当に職場で同僚の先生とかと話す機会もないし、家に帰っても誰が待ってる訳でもない。不健康な状態だよなあと思う。

 

 

「友達がいない」って呟くと「私はそうじゃないの?」って答えるやつ、アレ卑怯だよな〜って思う。「そうだよ」って答えるしかないじゃん。いや「友達がいない」なんて呟く奴も誰かが見てる事なんて分かってて呟いてるんだからそれはそれで卑怯だわ。

 

「友達がいない」ってどうやったら思わなくなるんだろうなあ。もう10年以上は同じ事言ってる気がする。実際いる/いないは関係なくて、思う/思わないの差なんだろうけど、、、

「友達がいない」に理屈も何も通らない。だってどうやったってそう思うんだもんなあ。友達を作るために相手の喜ぶ事を考えて、行動して、遠回りしたってまるで的外れな事の方が多いんだもんな。度重なる失敗は「自分には友達ができない」と思わせるには十分だ。自己肯定感がないと何も始まらないけど、自己肯定感を高める為には他人の承認が要って……みたいな事を考えると堂々巡りになる。じゃあ自分の事だけやろう、となると現状維持にしかならない、みたいな。

 

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赤月ゆにちゃん(Vtuberです)のラジオ第10回を聴いてて、思ったんだけど、「死にたい」と言っている人にかける言葉として、「私はあなたの事を愛してる」というのは「死にたい」に対しての割と有効な答えなのではないかと。勿論「死にたい」に対してかけるべき言葉に正解なんてないんだけど、これはかなりいい線言ってるのでは?と思ったので。ただ、相手の事を本気で思ってないと「愛してる」という言葉は出ないよな。(ゆにちゃんがそう思っていないとかいうのは別として)

「死にたい」人間に一番必要なものって上辺の話を聞いてくれる人間じゃなくて、病院に連れてってくれる人間なんだよな。病院に連れてってくれる人間、と最初に書いたけど、ODした時に呼んだらすぐ駆けつけてくれる人間とか、吐き散らかした吐瀉物を片付けてくれる人間とか。そういうのは愛がなきゃできないのでは?と思うんだけど、どうなんだろうね。「私はあなたと1人の人間として向き合う覚悟がありますよ」というのが示されば言葉なんて何でもいいんだろうな。きっと。恋が病熱だとしたら愛は何だろう。

 

https://youtu.be/GiPdefbPa0k

 

 

不眠症なので仕方ないけど、それでも毎日小学生の下校時刻に合わせるように起きてると何もできないまま毎日が終わってしまうな。

 

何者にもなれなかったらどうしよう。

みたいな、漫画で出てくるような台詞を言って終わります。

 

 

 

 

 

https://youtu.be/4Qpkui5ceJ8

 

一応赤月ゆにちゃんの動画を見直してみたけど、「愛してる」なんて言葉は一言も出てこなかった。なんかと混ざってる気がする。でもスピッツも「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」っ言ってるし正しいんじゃないかな………

ワシにも神童と呼ばれた頃があったんじゃ

 

新幹線に乗って秋田から帰ってきた。

 

もう正直家族と話す事なんてないので適当に会話を流しながら部屋にこもっている。

部屋にこもっていると色々フォルダや書類が残っていて、卒業文集を取り出してみる所から始まって、そこから部屋中の書類を懐かしくて全部ひっくり返して見てるうちに夜が更けてきている。

 

嬉しかった事をいくつか。

無くしていたコンピレーションアルバムが見つかってよかった。本当にどこに行ったかと思ってたので普通に嬉しい。

何故か中学生の時のファイルの中に2008年のコンプエースの付録のA2くらいのリトルバスターズ!能美クドリャフカのポスターが入っていた。古いアニメのポスターってだけで心が躍る。

高校の卒業した先輩の合格体験記に元カノの書いたものが載っていた。全然気付かなかった。高校の時、1個上の放送部の先輩(何で自分と付き合ってたのか分からないくらいかわいい)と2ヶ月か3ヶ月くらい付き合ってたのだけど、なにせ付き合ってた期間が短すぎるし、受験で忙しいから、とメールもろくにしていなかったし、当時のガラケーはつかないので、そういう思い出も出てこないものだと思っていた。

自分は実は学生時代に告白された回数がかなり多くて(10回は行ってる)、付き合った回数もそこそこあるんだけど、付き合ってもかなりの短い期間で振られているし、告白した/付き合った相手はみんなその事を忘れているか黒歴史化しているので、その事は結局自分しか覚えてなくて、自分しか認識してない記憶ってどうやってそれがあった、って証明するんだろう?って思った。

同族と思ってくれてた人間には悪いが、「学生時代は」モテてた。同じ部活の他校に自分のファンクラブがあったらしくて、他校の女子から連絡先を何度も聞かれたけど、今は見る影もない。こんな話で自慢してるくらい落ちぶれてるし、元カノとの思い出をぐだぐだ語って、昔はモテてたんだ、なんて嘯くオタクなんて当然モテないよな、わかって欲しい。こんな昔の自慢してる奴なんてモテる訳ねえじゃん。

 

あとはテスト類。中学のテストの成績表が出てきた。中学生は頭が良かった、と自分では把握してたけど、一回定期テストで482/500を取ってるけど、業者のテストだとたまに400点を割ったりしている。あと自分の英語の文章が出てきたけど色々酷い。酷いと言えども多分今とそれほど変わってない。とりあえず好きな人はaikoって書いてるなこの時代。それと筆記体がブームだったらしく答案も全て筆記体で書いてるな。中二だったんだから仕方ないよな。

中二といえば卒業文集が本当に酷かった。帰って来るたびに薄目で見るんだけど、「巻頭詩」というのがあって、開くと1ページ目に自分のポエムが載ってるのはマジで痛い。多分エロゲの歌詞をパクって書いたような気がする。なんか最後にロシア語で書いてある。なんだこれって感じだな。

 

この卒業文集はまだ毎年見てるので耐えられるんだけど、今日新たに発見したものがあって、それが

 

「文化祭の劇の脚本コンペに応募した原稿」

 

当時アニメに超ハマっていたので、登場人物の名前がCLANNADの登場人物で、内容もモロアニメのパクリで、「あんぱん……」とか言っちゃってるんですよ、なんだこれ。しかもそれをゴリ押ししようとしてたんだよね、当時。目を覆いたくなるよ…ほんと……こっちは人の目に残るような感じでなくて本当に良かった……

 

 

 

以下鬱です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さい頃は神童だった、ってまとめたいんですけど、神童になるにはメンタルの強さが足りてなかったんですよね。例えば英語のスピーチコンテストとかで練習の時点でボロクソに言われてテンションが落ちまくってる様子が書類から見て伝わってきたし、野球部でいじめられてイップスになって、背番号が安定しない感じとか(ピッチャーをやったりしていた)見ててやっぱりずっとメンタルが弱くて自信がなくて、それがずっと続いて高校になって鬱病に追い込まれると同時にインターネットに逃げていって、高校が終わる頃には頭が働かない状態になってたって感じです。

高校は受験期の夏休みには行けなくなって、夜に7時間目、8時間目をやって午前の分を取り返してようやく卒業できたけど、大学に行ってもずーっと朝起きられなくて今も起きられない。

鬱病の状態は脱したものの不安障害はずっと続いていて、青年期によるもの、と診断されてるけど、幼年期から抱えてきたのをどうやって克服するんだろうね。

結局健常なコミュニケーションを取る事を渇望してきた人生だったなあと振り返ってみると思います。変わってる、人と考えてる事が違うと言われる事が多かった人生だったけど、それで特にいい事はなくて、ただ他人と喋りづらくて輪の中に入れなくてそれを外から見てる、みたいな思い出しかない。ずっと、今も、誰かと友達になれないでいる。

もうこの歳になったら親の恩返しを考え始める頃なんだろうけど、自分を鬱に追い込んだ張本人である父は一生恨むつもりでいる。19の時に「半殺しにしてやりたい」とブログに書いてそれが見つかって怒鳴られた記憶があるけど、その時の火はまだ燻っている。正直一発でも殴ってやりたいくらいだけど、フィジカルで互角な分、あっちは自分を殴っていいと思っていて、こっちは親だから殴ったらダメだというのが頭にあるので、その分勝てないと思う。フィジカルで勝てる時を座して待つ。反抗期なんて子供かよって思うかもしれないけど、誰を恨むかなんて社会に決められたくはないよな。

 

 

 

 

 

 

自分の家の前は大きな駐車場で、そこには除雪車がたくさん止まってあって、冬の深夜になるとそれが稼働する大きな音が鳴るんだけど、もう朝になって終わってしまった。この悪夢みたいな閉塞した人生はいつ終わるんだろう。

 

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画像はひもてはうすでの狂った上坂すみれが演じた娘の大喜利の答えです。

 

※常体と敬体混ざっちゃった。毎度読みづらくてごめんね。

 

女性に隣に座られると赦された気がする

 

バイトで「ちょっとは考えろ!」って声を聞いて思ったけど、自分たち問題解くとき全然考えてなくて、ほぼ反射で解いてるよなあとか考えてた。学校の勉強なんて考えずとも反射でテストの解答用紙に文字を書けるようにしたいよね、そうしないと全然間に合わない、

授業で生徒の横で自分が解いてる時はめっちゃ考えるけどね、どう説明しよう、とか

 

小学生の子供に物を教える、というのが本当に難しい。小学生、というか語彙の知識の少ない人間に物を教える事。極端な例えをすると、「エクスクラメーションマークを書いて、」という説明があったとして、エクスクラメーションマークが何なのか分からない人にそれを噛み砕いて説明するような。この場合は「びっくりマーク」って言えばいいんだけど、その下位的な語彙を引っ張り出してくるのが本当に難しい。極力語彙レベルを下げて話しているとどうも人をナメてる感じに陥りやすいからそうならないように、オノマトペを駆使して話すんだけどそのオノマトペすら伝わっているか不安だ。

 

(ちなみにオノマトペってわかる?)

(分かんなかったらググってね)

 

極力語彙力を下げるとJKやDQN(もう死語か)が使っているような言葉になってしまう。あの辺が同じような言葉を使ってるのって、語彙レベルを下げて会話のレベルを均等にする為なんだろうな。無意識だろうけど自然自然にそうなってしまうんだろう。

 

 

 

自分はあんまり「考えない」って事が出来ない。考えに考えた末に投げたり、意識的に目をそらしたり、というのはあるけど、物事をそのまま「分かんない!」って言ってしまう事が多い。

(ちなみに物事をなんでもかんでも「分かんない!」って言う奴は「私にも分かるように説明しろ!」と駄々こねてるのと一緒だと思うので内心軽蔑してる)

 

けれども最初でも言ったけど何でもかんでも考えるのはよくなくて、特に朝のルーティンとか、顔洗ってご飯食べて着替えるだけなのに、朝ご飯食べるのがまーーーじで嫌いなので布団の中で何度も外に出るまでの流れを想定しないと動けない。人は思ったより考えないで出来る事は多いけど、考えずに身体が動くというのは羨ましい限りだ。

 

 

思慮深いとは良くいったものだが、お前はただ単に弱い人間というだけである、って意味深に英語でツイートしたけど本当にそれだと思う。英語で書くとかっこいいよね。思慮深い人間、社会的にはよろしいのかもしれないが、個人の幸せとして思慮深くない人間の方が幸せになれると思うし、自分は幸せになりたいと思う。

 

 

 

駅から家に帰るとき、ガールズバーの看板を持っている女性にかなり出会うのだけど、「この人は自分の顔面を売ってるのだなあ」と思うと果たしてそれに見合うだけの人間がいるのかどうか、というのを思ってしまう。少なくとも「ガールズバーにいる女性と喋って楽しい」という前提の下お金を払っているのはすげえなあと思う。知らない女性と喋って楽しい場なんてあんのか?と思ってしまう。自分がまだ若いから、女性と接する機会があるからそう思ってしまうのか、

 

 

 

何人か並んで一人一人喋る時、例えばアイドルの自己紹介なんかで一人一人で喋る時、喋り終わった後、そして人の話を聞いてる時どういう態度を取っているかを結構見てしまう。顔が無になってればそれはそれで萌えるし、聞いてますよ、という顔を作っている人もそれはそれで性格だなあと思う。自分は顔を作ってしまう側の人間なんだけど、人の話を聞いてる時に顔を作る人間があまり好きではないので意識して意識しないふりをしている。「間の時間」でどういう人間か出る気がする。人間の性格は顔にも出るし足にも出るし手にも出るし体壁にも出るし、逆に何を見るかも人が出ると思う。言葉だけじゃなくそういう非言語の所でかなりの所人間の性格を予想してるのではないかと人のコミュニケーションを見ながら思う。

 

 

 

誰が見てるんだこんな日記?

 

…と思うけど何人かは読んでるんだよな。

周りの人間より読まれてないけど、それでも読む人間はいる、みたいな感じだよなあ。ブログ、読まれたくない?どう?こんだけ書いてるだから読まれたくない?

 

写真はデレステで撮ったいい感じの写真をいい感じに加工したやつです。シリーズ化します。

 

 

 

 

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不退転の決意

 

 

Tumblrがあんまりにも使いづらいのでブログを変えた。好きなツイッターの人たちみんなはてなブログを使ってるのでおそらく使いやすいんだろう。「おしゃれっぽい!」でTumblrを使っていたが、改行すると文字は消えるわ、画像付けると超重くなるわで、最初メモ帳かFacebookの下書きに書いてからコピペしていた。結局Tumblrのブログとしての長所ってなんだったんだろう。(Tumblrが問題になっていた時、エロ動画をTumblrに投稿して鍵をかけておく、という使い方があったのを知った時、目から鱗が落ちるようだった)

 

色々なブログサービスを転々としてきてる訳だけど、自分が一番最初にお世話になったのはFC2とかlivedoorとかではなくteacup(https://www.teacup.com)というブログサービスだった。1代目ブログはもう残っていないが、2代目のブログは昔使っていたPCに残っている。今でもたまに見返すのだが、今からは考えつかないくらい頭がお花畑な文章を書いていた。

高校1年くらいまで今の小学生も書かない頭がお花畑な文章を書いていたのだが、高校2年のモバゲーのブログのやたらと改行の長いブログを経由し、高校3年には鬱々とした今とあまり変わらないような文章を綴っている。当時父親の締め付けが厳しく、本当に自分は生きるべきではないと思っていた思考がありありと見て取れる。この頃まで行くと今の自分との連続性が実感できるな。

 

そんなこんなでもう10年近くも自分の心情をブログに書く、という事をやってきてるのだけど、何年文章を評価される機会が減ってきてるからか、文章の繋がりが訳分からなくなってきている。どうしようって感じだ。流れで書いているのはいいけど、読みづらいでしょう?これ

 

文章を仕事にする事、考えなくもなかったんだけど、人に自分の文章を推敲されるのがまーーーーじで嫌いなので、絶対にそういった仕事には就けないと思う。人に一部直されちゃうと、文章のバランスが完全に崩れてしまうから、あれよあれよという間に全部書き直さざるを得なくなって………ってメンタルを崩された事が何度もあるので、もう他人に文章を提出しない事にした。レポートとか出来ないけど、もう無理だ。自分の文章が人の評価に晒されるのがもう耐えられない。

 

 

 

「人間の本性は崖っぷちになった時に現れる」みたいな事言って圧迫面接とかが日本で横行している訳だけど、当然プレッシャーのかかる場面で人間、パフォーマンスが落ちるのが当然な訳で、「プレッシャーや壁にどう立ち向かうか?」みたいな質問があったら、そもそもそういう場面を避けるのが正解であると自分は言いたい。

思えば小学校の野球の試合、陸上の試合、ハンドボールの試合、中学校の野球の試合、高校のハンドボールの試合、最高のパフォーマンスが出せたり最高記録を出せたのは「別に結果がらどうなろうといいや」と思って適当にやった時だった。

年齢が重なるにつれ、プレッシャーがかかる場面ばかりになってきて、「別に結果がどうなろうといいや」と考える事が少なくなってきたが、投げやりでいいような、そんな場面を作っていきたい。自分で作れるのかどうかは分からないけど。

 

 

 

 

関係ない話を。

 

塾講師なんてバイトをやってるけど、本当にただ小中学生とお喋りをするばかりで、特に何かを教えられてるような気はしない。

塾って親が勉強させてます、っていう安心を買ってるだけなんだなと漠然と思う。こちら先生としてもテストに出そうな所を板書して書かせたりしている訳だけど、結局テストの前に見るのはワークの「まとめ」の所だけで、自分達がテストに出るよ、と言った板書は授業が終わった後恐らく一回も見返さないので、復習も意味がなく、ただ子供の才能(あんまりこの言葉を使いたくはないけれど)に依ってしまう所があるなあと思う。

 

学生の時、塾、ありましたか?

僕の所は無かったです。

 

 

 

タイトルはなんか響きが好きでバイト中にころころ頭の中で転がってたのでつけました。

 

デレステのフォトスタジオで撮った画像を適当に加工するのにハマっています。

 

https://www.instagram.com/sigur_18g/p/BrZ44LyANFC/

Instagram post by wac • Dec 15, 2018 at 10:24am UTC

 

以上です。