神経質おばけ

 

 

 思ったより自分が匂いに影響されている、と気づいたのは最近の事だ。

 

 

 2年前にオーストラリアに留学に行って、1か月とはいえ朝起きて学校に行って夜は寝て、という生活が出来たのが奇跡すぎて、2年経った今でも何故あの時は上手く行って、今は上手くいかないのかという事をずっと考えている。高校を卒業してから今まで、朝起きて夜眠る事を一か月も実現できたのが数える程しかない。

 

 この事を他の人間に言うと、「昼にちょっと起きて日光を浴びればいい」とか「朝寝ないで夜になるまで寝るのを我慢する」などの意見をよく貰うんだけど続いた試しがない。前者に関してはそもそも陽が出ている間に外に出るのがめちゃめちゃ辛く、たまにライブやイベントで12時や13時に起きる用事があったとして行けるのが半々ぐらいなので、全然続かない。後者に関しては少し自分で実践する事を想像してくれれば分かるとは思うんだけど、睡眠のサイクルが崩れると常に気持ち悪い状態が続いてしまい、朝起きるリズムに定着するまでにかなり体調を崩してしまい最低限の生活(ご飯を一日一食食べるとか)すら出来なくなってしまう事があった。

 

 こういった人のアドバイスを聞いて、睡眠時間をいじる事で生活のリズムを整えようとして、起きたら気持ち悪くなって何も食べられなくてベッドの中で自己嫌悪に陥る、というのが大学生活のいつものパターンだった。大学を辞めて今は最低限のバイトしかしていないんだけど、精神状態がかなり安定してきたと思う。たまにまともに働いている人間と自分を比べてしまう機会が出てきて落ち込む事はあるけれど、それでも数年前に比べたらだいぶマシになった。

 

 今、生活で一番意識しているのは「ちゃんと食べる」という事だ。

 言ってしまえば当然の事なんだけれど、「寝るにも体力が要る」という事にきちんと実感が得られたのはここ数年の事だった。自分はストレスを感じた時に真っ先に胃に負担がかかってしまう。主な症状としてえずきが止まらなくなってしまうんだけど、えずきが止まらないと食事を摂っても全部吐いてしまう気がするし、そうするとすぐに食事へのやる気を無くしてしまって栄養失調に陥ってしまう。栄養失調に陥ると寝て起きても吐き気が継続してまた食べられない、みたいなループが自分の中に存在すると気付いた。

 

 普段の生活の中で人と関わって、自分の生活について話す機会があれば、こんな当然の事をもっと早く気付いたのかもしれないけれど、大学は一年でまともに行けなくなってしまって、それ以降ほとんど一人で過ごすようになってしまったし、親とも仲良くはないので、今の自分の生活について把握している人間がいないし、自分も「今どうやって生活しているの?」と訊かれたとて責められるような気がしてしまって話せない、という状況にいる。

 

 「ちゃんと食べる」事は意外に難しくて、それを意識してから自分は食べるのが好きじゃないんだな、と考えるに至った。一人で食べる飯は本当に不味いし、食べても吐き気がするし、一日で自分の身体に必要な栄養を摂る事がこんなに難しいとは思わなかった。特に一日の最初に摂る食事が難しくて、ルーティン化するのに本当に時間がかかった。まず起きると吐き気がするので、パンとかご飯とか重いものが食べられない。かといってシリアル類だとお腹を壊してしまうし、おかゆやゼリー飲料など、質量があまりないものだと足りない。みたいな事を色々検討した結果、今の所冷やし中華に落ち着いている。なぜだか分からないけれど、冷たい食べ物だとまだ胃に入るらしい。けど夏が終わってしまって冷やし中華がスーパーから消えてしまい、今どうしようか迷っている。冷麺がまだあるけれど、いつ無くなるか分からない。代わりを探している。

 

 人によっては朝に何を食べるのかを一生懸命考えるなんて下らない、と思うかもしれないけれど、それでも自分はそれを考えないと暮らしていけない。

 

 自分はテニスをよく観ていて、その世界ランク2位にラファエル・ナダルというスペインの選手がいるんだけど、試合を見ているとナダルはサーブを打つ前にいくつもいくつもルーティンがあって、打ち直しになる度にそのルーティンを一から全部やり直すのを見て神経質だな、と感じるんだけど、それと同時にとても共感してしまう。

 


Serving Rituals (Nadal, Federer, Thiem, Djokovic, Murray, ...)

 

 5分辺りから。

 

 

 結局自分は超神経質なので他人の話はあてにならない。

 

 そういう「生理的に嫌な問題」が、意識していなかっただけで自分の中にいくつもいくつもある事に段々気付いてきた。ここで冒頭の話に戻るんだけど、嫌な匂いの所にずっと居ると体調が悪くなってしまう。ライブハウスみたいな所にずっと居れば具合が悪くなるのは誰でも分かりそうなものだけれど、それが街単位である事にあるんじゃないか、と思い至ったのがごくごく最近の事だった。大学に入ってから今まで、ずっと家に引きこもってきたので今住んでいる街以外の街を全然知らない。そういう理由で引っ越しをしてみたいけれど、じゃあ物件探しをする時にそれをどうやって他人に説明したらいいかわからない。

 大きな決断をするときに直観的にこうだ!と思っていてそれは多分正しいんだけど、それを他人に説明するのが難しくていつも行動まで移せない。とりあえず12月に福岡と大分に行く。それが良かったら好きな街を探しに行くと思う。自分を大事にするとか自分の為に努力するという事が全く出来ないし、流されるだけの周りの人間もいないから、自分が一人で心地よく存在できる場所と食う手段を探しに行きたい。今までは先ずコミュニティを探したり、人とコミュニケーションを取る事から社会復帰をするべきだと思ったけど、日中起きられない人間を受け入れるコミュニティなんてないので、身一つで稼げる手段を見つけなければ後は死ぬしかないなあという心境になっている。

 

 

 

 難しく考え過ぎなのは分かっているけれど、えいやと身を投げた先で納得してない自分に気付いてやめてしまうという事が多いので、社会で当たり前とされている事に届くように自分にしか分からないような環境を固めていきたい。自己責任論を真に受けすぎてしまうとすぐメンタルが潰れてしまうので出来るだけ環境のせいにしていきたい。

 

note.mu

 

 この記事を見て、「もしかして自分の香りが色濃くあるとしたら、それ以外の周囲の匂いに対して鈍感になれるのでは?」と思ったので自分の香りを探しに行きたい。

 

「嫌なら見るな」と言うことについて

 

 

 「全肯定とちひろの考えを尊重はちがう」、本当にその通りだと思います。

 

 少し違う話かもしれませんが、ずれた事を言ったりやってしまった人に対してリスナー同士で総叩きをしている光景をあちこちで見ます。

  ライバーの行動や活動方針を無意識にコントロールしたいリスナーは無限にいて、それをマシュマロなりで送ってしまう、ライバーがそれを負担に感じて配信やTwitterなどで表面化する、それに対して感情的になったリスナーが非難して炎上する、という流れが定型化してきました。

 この流れはVtuberだけじゃなく、凄惨な事件があったり、有名人が悪事を働いたりした時にニュースとかでよく見る流れではあります。まず元の「APEXばっかりやるな」というマシュマロを送った人間もそうなんですが、そのマシュマロを公開してライバーがそれについての意見を述べた後、そのマシュマロを送った人間に対してリプ欄でライバーへの尊重を見せかけつつ、その人を非難轟々にするリスナーも考えものだなと思います。

 

 

 自分の話になるんですが、「ライバーの事を尊重できないなら見るな」とか「ライバーに迷惑が掛かるようなコメントをするな」などのコメントを見かける度、『自分は見るに値しないのかなあ』『コメントしても迷惑になるだけだよなあ』と思って勝手に心を病んでしまう事が多々あって。そこに「(それくらいの事で気を病むくらい)心に余裕がないなら見るな」とまでコメントで言われると、もうそのコンテンツから離れるしかなくなってくる。

 いやいや、被害妄想で心の余裕がなくても、Vtuberの放送見ていいじゃん!!!って思うんですよね。ただ、そういう状態になってる時は自分で自覚して、ライバーへのリプやマシュマロを送るのを控えるとか、そういった対策を自分でしていかなきゃいけないとは思います。とはいえ、自分で自分の心の余裕が無いって気付くってそうそう簡単な事ではないんですけどね。

 

 

  自分はこうやってコンテンツから距離を置くことで精神を保ったりできるんですが、ライバーってその批判を一身に背負ってそれから逃げられない訳じゃないですか、メンタルが弱い自分からしたら考えられないし、たぶん目を通すのも憚られるような文章も届いているんだろうな、と想像するだけで気が遠くなってきます。

 ライバーに対しても「(1リスナーの意見に対して)嫌なら気にしなければいい」というコメントを何回か見るのですが、嫌なら気にしない、って事がどれだけ難しいか分かってるんか??お前はそれができるんか??と頭の中で思ったりします。実際「嫌なら気にしない/見ない」っていう事ができる大人がどれくらいいるのか、そういう精神的な器用さをライバーに対して求めるのも一つの悪意なのでは?だから言葉に対して「嫌なら見なくてもいいよ」「気にしすぎだよ」と他人に言ってしまう自分自身の言葉の棘に対しての無関心さと表裏一体なのではないかと思ってしまいます。

 「悪意のあるマシュマロ」と一口に言うけれど、それを判断するのは受け取り手な訳で、気を付けていたとしても自分の送った言葉がいつ「悪意のある言葉」になっていてもおかしくはないという事は全員心に留めておいてもいいとは思います。

 一方でコメントでのプロレスみたいな文化もあるから、重く考えすぎてもいけない…難しい…というのが正直な気持ちです。

 

 

 

 「その人の考えを尊重する事」と「その人の言ってほしそうな言葉をかける」こと、見た目がよく似がちな為に扱い方を考えなければならないですね。

 

 

 

 

 この文章も誰かの意見を否定したりしていないか、誰かを無意識にコントロールしようとしていないか気を付けながら書いてはいるんですが、誰にそう受け取られても不思議ではないから怖い。そもそも1リスナーが意見を言うな!ただ享受しろ!っていうのはごもっともなんですが、それを他人に強制されたりするのも違うよなあ…みたいな事をぐだぐだ考えています。でももうちょっと気楽に話したりしたいなあ。

 

 

関係ないけど夢月ロアさんが#ちとせてんごくのRTをするのエモエモのエモですよね……

潔癖症の人




人に自分の印象を聞くとそれから学ぶ事が100くらいある。スクショは長年のフォロワーさんに「#いいねしてくれた人の現時点での印象を言う」みたいなやつで返ってきた答えだ。自分で自分の事を考えて言葉にするけど結局それは堂々巡りでしかないので、人に話を聞く事でそれが自分探しの答えになったりする事は結構ある。それを期待して人に自分の事を聞いたりもするけれど、人に自分の印象を聞くのは、かなり構ってちゃんみたいで憚られるし、それに自分について、そして他人について、そんなに語れる言葉を持っている人は多くない。


帰省して久しぶりにテレビを見ている。「キスマイBUSAIKU!?」という世界一嫌いな番組があるのだけれど、それだけでなくもう大半のテレビ番組が見れなくなってしまっていた。テレビ番組、というか外にあるコミュニケーションの一部分は他人の言動を論う事で成り立っているんだけど、どうしてもそれを面白いものとして見られない。行動に指を指されてケラケラ笑われるとか、あれはないよねえと陰口を叩かれるとか、そっち側の人間に感情移入して見てしまう。キスマイBUSAIKU!?はそういった人の行動を喋りだけではなくきちんとテロップで表示してくれるので、共感性羞恥の自分に分かりやすく、羞恥をさせて頂けるのでぶっ刺さりである。やっぱり娯楽にも向き不向きがあって、一般的な所で言うと自分は下ネタとかが割と好きなんだけど、それって人によって得意不得意があって、向けられただけでフリーズしてしまうような人がいるように、地雷の数は人の数だけある、というだけの話で、それで自分は、人を論うネタが苦手だっていうだけの話。


今書いていて思ったけど、「何かが嫌い」というトピックは話し手としてとても話しやすい話題なんだよな。今日の主題は「何かの悪口を主体としたコミュニケーションが苦手」だった筈なんだけれど、早速矛盾してしまっているな。英語の授業で「What's your favorite food?」なんて聞くよりも「What food do you dislike?」って聞いた方が話が盛り上がる、という持論があるんだけど、好きな食べ物の話なんか、あるあるすぎて各人エピソード持ってるからトントン、みたいな説もあるな。


閑話休題。そういったコミュニケーションが苦手で、そういう話をされる度に悪口を言われるものの気持ちになってしまってどんどん精神力が削られていってしまう。とはいえ、コミュニケーションのデッキのTier1として、自慢話と人の悪口は燦然と輝いているので、それから逃れる事も出来ないし、それを許せるようになりたいんだ。相手から口にする事もそうだけど、自分で意識して悪口を口にする事が出来るようになりたい。自分を棚に上げる、というのももうちょっと自分はしてもいいと思う。多分もう自然にめちゃくちゃ言ってはいると思うんだけど、意識的に言おうとすると自己批判の声が脳内で反響してしまうからそれをやめたい。



自分は長年ブログを書いているので「文章が上手い人」だとよく評される事があるんだけど、自分で自分の事を、「文章を書くのがめちゃめちゃ下手」だと思っていて、それは何故かというと、全部が全部の文章、この書体でしか書けないんだよね。構成もクソもなくて。高校で小論文を書く時もなかなか先生の「ここを直した方がいい」という部分が理解できず、手直しするだけでいい文章を全部取っ替えて毎日原稿用紙5枚を書く羽目になって鬱になったり、大学に入っても英語の論文で先生に「言っている事がめちゃめちゃだ」と言われ、どうやっても完成させる事が出来ず、その授業が必修だったので同じ授業を6回取り直して、結局卒業する事が出来なかった。


以上のエピソードで実感した事が、「自分の文章のリズムを一度崩されると完全に筆が止まってしまう」「自分のお気持ちしか書けない」という事。客観的に、構成通りに書く事が致命的に苦手。良くも悪くも主観的で感情的な人間だなあ、とつくづく思ってしまう。そこでタイトルの「潔癖症」なんだけれど、潔癖症の人間って別に側から見てめちゃくちゃ綺麗って訳じゃないんですよね。ただ自分の中で「こうしなくちゃいけない」ってルールが沢山あってそれに縛られてしまう人間なんじゃないかって。それって自分と近いところがあるよなあって思います。まあ、不安症と、強迫性障害、遠からずな所にいますからね。ほぼイコールみたいな所ありますよ。自分の文章に対して他人の目線を少し許容できるように(一生ならないと思うけど)なりたいですよねえ。文章を書くのは楽しいから仕事にしたいなあとは思うけど、こんな感じだからお金にはならないね。


自分がどんな職についたらいいのか1mmもわからない。つべこべ言わずにハローワークに行けって話なんだけど、行って調べても「どんな職をお探しですか?」って言われてそこで詰む。自分の担当する職場の人間関係がほぼ全てでそれ以外は別に何でもいいと思っているけど、多分新卒の人間みんなそうで、その上で自分なりに情報収集して、えいやと新しい波に飛び込んでいくのが一般的で、そこに飛び込めない自分は、例えば小さい頃に橋から川に飛び込まなきゃ友達と認めない、のに飛び込めないような、そんな疎外感を感じる。いつか社会にお前は友達と認められる日は来るんだろうか?


そんな感じでひどく不安を感じながら毎日を生きています。現在は帰省しているのですが、隙を見せると「お前、これからどうするんだ?」パンチが飛んできそうで怖いから迂闊に自分の部屋から出られないし、外に出ようものなら知り合いと会って「仕事何してるの?」パンチが飛んできそうで精神を擦り減らしながら親に連れられながらご飯を食べに行ったりしています。

あなたはどうですか?あなたはどうして自分が生きていていいと思いながら生きていけるんですか?外を歩いていたら他人から存在をしているだけで嫌な思いをさせていると妄想をしたりしませんか?あなたはそうじゃないとして、隣に座っている人がそうやって考えている事、考えもしませんか?しませんか。そうですよね。私は、ずっとそんな事ばっかり考えています。「他人は自分の事をそんなに考えてない」なんてそんな言葉が薬になったらいいですね。あなたがそうであってもそうでなくても、私の見えてる世界がこの有り様なので、話はこれで終わりです。おつかれさまでした。

わたしみ

わたしみ

Twitterしばらく見ない」って言っておいて全然見てる。怒らないでね。

The old fogey almost did it.

 

 

 自分には好きなものに自分を重ねたり、引用する事でしか自分の気持ちを他人に共感させる手段がない。それを「自分がない」と言い切ってしまえばそれまでだ。

 言葉って自分の集めた好きなものから出てくるものだけど、果たしてそれがオリジナルの「自分の言葉か?」と言われれば疑問だ。我々は自分の言葉を他人の言葉に仮託し過ぎている、人生も然り、自分の人生を生きるべきだ、

 

 

 うるさい、他人の人生生きさせろ、誰かの人生に仮託して生きていきたい、私はいつか王子様が迎えに来てくれて毎日王子様の事を想って、王子様の不倫に一喜一憂してそれでそのまま死んでいきたいんだ。

My Adorable, Broken Internet Archives


小学生の頃、プロフィール欄の私の宝物の欄に「プレステ2メモリーカード」と書いていた。


小さい頃から実物よりデータで物を集める事に執心してきた。プレステ2メモリーカードのデータは破損してしまったけれど、今でもYouTubeWatch Laterのリスト、ブラウザのお気に入りのサイトを眺めては恍惚に浸るのが趣味だ。


これは私が長年こういう事をやってきたから分かるのだけど、「ネットにアップされた情報は永遠に消えない」というのは嘘だ。公式、非公式に拘らず。個人でやってきたサイトは個人の一存で消えてしまうし、ブログサービスなんかも、会社の盛衰によって消えてしまう。現在進行形でブログサービスがどんどん終了していっているし、本人が「パスワードを忘れた」というだけでもう一生他人の目に晒されない。


あれだけ好きだったボーカロイドの曲が、投稿されていたニコニコ動画からいくつか削除されているのを見つけた。たった8年でこれなのだから、いずれ、自分がハゲにになる頃には、ニコニコ動画ごと無くなってもおかしくない。いま、僕たちが躍起になってやっているTwitterも、他のもっと有用なサービスが確立すれば、いずれ飽きられ捨てられる日が来るかもしれない。仮にそういう日が来たら、人に転載するに足らない、と判断された言葉たち、画像たち、動画たちが誰の目に留まることなく消えてしまうのだ、とひとたび考えてしまうと、その情報たちが愛おしくてたまらなくなってくる。


YouTubeの動画のひとつひとつは、誰かが作った汗と涙と血の結晶なんだろうけど、その努力を知らない消費者の自分からしたら、海辺で集めたきれいな貝殻みたいなものだ。尤も、それは自分のものじゃないから、いずれ消えてしまうし、ここにある文章も、いずれ消えてしまう。死んだ友達のFacebookにあった動画は複製して残してあるけど、果たしてここにある文章は、自分の残したデータは、誰かが複製するに足るものなんだろうか?と考えてしまう。


インターネットの最期があるとして、インターネット(PortalのGLaDOSみたいな人工知能を想像している)は、スペースデブリみたいにインターネットを浮遊している、誰にも思い出される事がない、私の言葉を走馬灯で思い出してくれるのだろうか?インターネットは、傍目には消えているように見える、誰かの言葉たちを全部覚えていたり、するんだろうか?



ディズニーランド問題



ディズニーランドに対する並々ならぬ想いがある。「現実に存在するファンタジーを全然楽しめないコンプレックス」というか、 どこかそういう物に対して冷笑的になってしまう(そこに入り込んだ方が絶対に楽しいというのは分かっているのに!)のが悩みで、決められた場所で自己を解放できる人が羨ましくてたまらない。

「自己を解放できる」という言い方をするのはなんか違う感じがして、あの空間にいて楽しめるって事は、「あの空間が要求するロールをすんなりと受け入れられて、かつそれが楽しい」という事で、そう考えるとめちゃめちゃすごくて、そして多くの人間がそれが当たり前である、という現実に愕然としてしまう。

ディズニーランドとか、あと例えばメイド喫茶や、キャバクラなんかもそうだけど、そこの空間においていくつか暗黙の決まり事があって、キャストにも客にもそのルールを守ってもらう、その上で楽しむ、みたいなものがもう明確に苦手で、「これは決まり事を破っていないか」「キャストに迷惑がかかっていないか」という事を一々気にしすぎてしまって、現実社会以上にストレスがかかってしまう。

こういう事を考えてると「肩を抜いて楽しんだ方がいいよ」とか「難しい事を考えないで」とか言われるんだけど、それが出来ないから、こんなにコンプレックスを拗らせているんだろが、と思う。普通の人(いつもこの表現を使ってしまう)(普通の人とかいないのに)は、多少ハメを外した所で役割を自然に果たすことが出来て、スタビライザーが付いてるのにすっかりそれを忘れていて、「スタビライザーなんかいらないっすよwww」と言っているように思えて、それがすごく羨ましい。その人達は私の事を 、「空気の読めない奴だ」と言って面倒臭がると思うけれど、どうしたらいいのかわからない。病的な人間は隔離されるべきなんだろうか?人前で足の先まで気を張ってないと、人前で人間の形状を保っていられる気がしない。

そもそも人的なファンタジー、というだけじゃなく、ファンタジーそのものがひょっとしたらあまり好きじゃないのかもしれない。ディズニーランド、ディズニーランドだけじゃなく、人的なファンタジーを普通に楽しみたいのに、「肩を抜いたフリ」「難しい事を考えないフリ」をするのが難しくて、全然楽しめない。誰か、ディズニーランドを歴史的建造物として扱ってくれる人間といつか一緒にディズニーランドを散歩しに行きたい。ディズニーランドは歴史的建造物として、歩いているだけで楽しそうなのに。公式の推奨する楽しみ方だったり、「ディズニーを好きな人」の「ディズニーの楽しみ方」を押し付けられる事でそれ自体を嫌いになってしまうような事ばかりだ。

一人で行けって話だよね、泣けてきちゃう。





「あのねえ、物事にはね、キリっていう物があってね。私にも世間の目っていうものもあるの。もしあなたが大学に行きたくない、就職もしたくない、一日中ベッドの中で寝ていたい、というんだったら、せめて気狂いか、病気にでもなれないの?ただね、こう、はっきりしてもらわなければ……はっきりと……」



フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

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