好きだから、離れよう

自分がこうしてぐだぐだ言っている事を一言にまとめると「コミュニケーションが上手くいかない」だ。もっと情けなくいえば「何もせずとも愛されたい」とか「私の事を無理矢理他人に押し付けたい」とかになるのかもしれないけど、言葉として出てくる時にどうしても自分の最も情けない言葉では出てこないしかっこつけて出てきてしまうので、これがもっとも本質であるかは分からない。

「コミュニケーションが上手くいかない」なんて現代病で、若い人間誰しも抱えてる悩みだと思うけれど、物心ついた時から今まで暇になるとこの事を考えしまうので、きっと他の人間よりは切実度が高いと思う。

ただ「コミュニケーションが上手くいかない」なんて考えてるのは自分だけであり、他人から見れば普通に会話出来てるのかもしれない、というかその可能性の方が高い。なのにこうも繰り返し「コミュニケーションは上手くいかない」と思わされてるのはなんでなんだろうか。一口にインターネットで繋がれるようになったけどその分社会的な孤独感が増大した、みたいな言い方をされるけど、インターネットのせいにしちゃう?本当にそう?この世にはインターネットに孤独感を侵される人間とそうでない人間がいて、問題は個々人の認知特性によるんじゃない?みたいに思ってしまう。「コミュニケーションが上手くいかない」人間は元々コミュニケーションが上手くいかなくて、それがインターネットで共有されて大きな声になって目立つようになっただけでは?


話を戻すけど今までずっと「コミュニケーションが上手くいかない」→「コミュニケーションを上手くいかせるには?」みたいな事を自問自答し続けたような人生だった。上手くいかない出来事があってはその事象を相対化して、「なんで上手くいかなかったか」を相手に聞くわけにはいかないから、頭の中でトートロジーのように考え続けるような、そんな感じだった。そんなの相互性があるから人によって違うのに、何か法則があるんじゃないか、と1人で問い続けたけど結局上手くいかなかった。当然か。

とはいっても日常的に話す人間が本当にいないので、トライアンドエラーができない。その為原因を小さい頃の自分に求めてしまう。 今は、「人間は言語を話し言葉で覚えたか?書き言葉で覚えたか?」みたいな事を考えている。自分は小さい頃はまともに会話が人と出来なかったので、ずっと本を読んでるかインターネットを見ているかだったので、自分は圧倒的に「書き言葉」側だと思うのだけれど、圧倒的に「話し言葉」で覚える事の方が多いと思っている。「話し言葉」の人間の事はよく分からないけど、「書き言葉」側の人間はインターネットとの親和性が高くて、あとインターネットミームとかの相性がいいと思っている。インターネットで話している言葉がそのまま話している言葉に出てきてしまう人間は「書き言葉」の人間かもしれない。自分は今ここに書いている文章と話している内容の文章がそんなに変わらないと思っている。

インターネットに親和性が高い人間が必ずしも「書き言葉」側の人間じゃないと思っている。「話し言葉」側で言語能力が優れている人は、ちゃんと脳内の言葉を「書き言葉」に変換させて端麗な文章を書く事ができる。

「書き言葉」側の人間が上手く「話し言葉」に変換する事は出来るのかどうか分からない。正直小さい頃にずっと本ばかり読んできた人間が大人になって周りの人間と同じようにコミュニケーションを取れているイメージが湧かない。自分なんかは「書き言葉」が段々と「話し言葉」に混じってきてしまっているので、もう今の感じ以外では文章が書けない。「話し言葉」が流暢な人間はどうやって「書き言葉」までそんなに綺麗に書けるようになるんだろう。

イメージ、そう、ここまで全部勝手なイメージの話なんだよな。結局「書き言葉」「話し言葉」の人間なんて実際には存在しない。ただ多数派と少数派に人類を分けて、その少数派に自分を置きたい、それだけの話だ。

コミュニケーション(英: communication)もしくは通信(つうしん)、交流(こうりゅう)、意思疎通(いしそつう)とは、社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達[1]。 (生物学)動物個体間での、身振りや音声・匂い等による情報の伝達[1]。 原語がcommunicationなのでカタカナで表記する場合は「コミュニケーション」である(出典:広辞苑[1]。大辞泉[2])。

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