あたしおかあさんだから

 

このブログでも何回も言っているような気がするけど、「あたし○○だから」という言葉には呪いがかかっている。現代人は自分の役割が不透明であると不安になってしまうので、一人称をそれに固定する事によって自己の役割を自分で確認しよう、みたいな事だと思うけど、他の言語にはそういう事ないもんな。英語では「私」も「僕」も「あたし」も「小生」も全部「I」で示されるけど、もしかしたらもっと他の国の言語で一人称を独特の呼び方でするものがあるかと思ったけど、他の言語ではちょっとググった限りでは無かった。主語で自分の役割を規定しようとするのは日本語だけなんだろうか。海外には「おじいちゃんはねえ、孫であるお前の顔を見るのが何よりも楽しみなんだよ」みたいな表現はないのか。

 

特に「あたしおかあさんだから」の歌詞について何か言う事はないです。タイトルが強烈に自分が今回言いたかった「主語を変える事によって自己の役割を規定する」みたいなテーマに合致していた、ってだけ 

 

とは言っても自分も「俺メンヘラだから」「俺キモオタなので」って自然に言ってしまいがちで、これは良くないんだよな。そう言う事によって本当にそれになってしまう。でもこれ以外に自分を形容する言葉が無くて、そして自分を形容する言葉を他人から与えられないと、とにかく不安になってしまうんだよな。なので自分が前述した日本人の性質にもれなく自分も当てはまってしまう。

 

 

 

これまで、恐れ多くも何度か女性に好きだ、とか愛しているとか言われた経験があるんだけど、須く3ヶ月以内で相手側から撤回されている。そういう人間ばかりに好かれる、と言って片付けてしまえればいいんだけど、本当に同じ様な事が何度も何度も続くので絶対自分に原因があると確信している。それを言ってくれる前に離れてしまうので結局何が悪かったか毎回一人で反省会するしかなくて、その反省会が自己否定のループでしかなくて、半年はぐちゃぐちゃに悩む事になる。多分こういう部分も駄目なんだろうな。「こういう」がどういう所かも明確に分からないから多分次があったとしても同じ事を繰り返す。もしかしたら次はないかもしれない。そう考えるともうひたすら惨めになってくる。

 

一個、自分は「人間関係」としてコミュニケーションを捉え過ぎなんじゃないかな、と思った、対面にいる人間も、社会の人間関係の枠組の中の一個として捉えてしまう。今、目の前にいる人間が今までの人間関係のパターンの一個ではないかもしれないし、きっと対面の人間をひとりの人間として尊重しない態度は相手に見透かされている。

これらの不安とか、内省とかを好きだと言ってくれた人間にあなたへの不信感も含めて全部白状してしまうんだけど、少し考えればこういう不安を他人が許容しても肩代わりしてくれる訳ではないよなあ。反省が止まらない、きっとまだまだ悪い点はある。こうやって自己否定を繰り返して「私なんて愛されるに足る人間ではない」と思い込んで更に相手に執拗にそれを伝えてしまうのも不安を煽る事でしかない。

 

こういう反省を人の目に付く所がまずナンセンスだし、独りよがりだとは思う。ただ、これからもこれを繰り返すのかと思うと今も不安で動悸が止まらない。「あなたにはほとほと愛想が尽きました」とブロックされては脳内でイタチごっこになるだけだ。本当に助けてくれ。(ここで「誰でもいいから」助けてくれ、という含みが感じられるのが尚良くない)

 

あたし、宇宙人だから、人間と殴り合ってケンカがしたい。切にそう思う。