オタク、お休みします


オタクTwitterアカウント、休止します。今までSNS断ちとか一回もやったことなかったんですけど、気付いたらVtuberのツイートとか声優のツイートとかを見て丸々1日が終わっていて、ヤバいと思っていたところ、昨日ふとスーパー銭湯に行って「凪のお暇」を読んだらTwitter休むのもいいのかもしれないなあって思ったので一旦やめます。漫画に影響されやすいので。

明日には戻ってきてるかもしれないけど、宣言してみるだけ宣言してみるって感じです。

それだったら「Twitter、お休みします」で良かったんだけど、今回「オタク、お休みします」が題名になってます。僕は、アニメオタク、Vtuberオタク、邦ロックオタク、声優オタクなどなどをを自称してきたんですけど、「オタクならこれくらい知ってなきゃいけない!」っていうなんとなくの自己ハードルを課していて、自称しているものが増える度に摂取しなければならない情報が増えてしまってて、

別に辛くはないけど、さっきスマホから離れてお風呂に入ってて、ちょっとこれでいいんかな?って感じになったので、こう、オタクの看板を一回外そうかなと思っています。 とはいえ、オタクの看板を外して、自分に何が残るかと言われれば甚だ疑問なんですよね。「自分には何もない……(cv.大橋彩香)」って言って枕を涙で濡らしながらTwitterを開く図が目に浮かびます。



ま、やってみるだけやっていきましょう。



凪のお暇めっちゃ面白かったの是非とも読んでほしいです。主人公が以前好きだった人に似ていてとても心が締め付けられました。そういう漫画じゃないんですけどね。

物語内にも出てくるんですけど自分は「容姿が可愛すぎて浮いてる」みたいなキャラが好きです。容姿が可愛すぎて隙あれば男から言い寄られるんだけど、そのせいで周りの女キャラから男に色目使ってる!ってなって嫌われる、別に普通に人と接したいだけなのに!実績をあげても容姿のおかげだって言われるから自分の努力してきた事ってなんなんだ………みたいなみたいな。

あれって本当にあるんですかね、めっちゃ可愛い人間に逆に近寄りたくないですよね、電車の中で女性の隣に座ると気を遣ってしまうから、あえて男性の横に座る方が安心する、みたいな。

あ、電車で思い出したんですけど、この前女性の隣に座るか刺青とか入っている大股開きのイヤホンでめっちゃ音楽聴いてる外人に座るかの二択に迫られて、(今思えば普通に立ってればよかった)じゃあ外人の隣座るかつって座ったら明らかにソワソワしだして、なんか喋り出したと思ったらすぐ電車から出て行って、あれは近寄るなってサインだったんだろうなあって降りた後で思いました。怖かった。

話は戻るんですけど、めちゃくちゃ可愛い容姿の人間が居て、ちょっと仲良くしてくれたら「俺に気があるんかな?」って思っちゃうと思うんですけど、今の20代の男性ってそれで失敗して女子グループのLINEに晒されたりとか、そういうのを経験していると思うので、仲良くした人間全員アプローチしてくる!辛い!みたいなのは今あるのかな。一部のハイスペックの男が手当たり次第アプローチしていて、それを「全員」と思い込んでいるだけなのでは?って勝手に思っちゃうんですよね。普通以下と自認してる人間だったらそもそも恋愛のステージに上がるのを拒否すると思う。自分は無理。

現実では容姿のいい女と普通の見た目の男がいて、女は「こいつは自分の事を恋愛対象として見てないから楽だ」と思ってるのに対して男側が恋愛対象として見られるのが嫌だろうから見ないようにめちゃくちゃ気を遣ってる図はよく見るような気がします。居酒屋でそういう感じの会話を聞いただけで、別に「よくある」事ではないのかもしれませんけどね、よく見ません?あれは女側もその辺分かってて、「でも普通に話してくれるように見えるから」で黙認してるんですかね?どうなんだろう。

なんの話だったっけ。こういう「可愛すぎて周りから疎まれてる女」は女作者特有って思ってしまうんだけど、男作者だとか女作者だとかそういうので見るのはあんまり良くないよなあと思いつつ、でも絶対そういうのあるよなあと思いつつ、その辺でモヤモヤしてるやつも、Twitter見てる事によって生まれてきているので、女性嫌悪がもっと加速する前に(もうなってるのかも)離れた方がいいのかなあっていう結論です。

(画像は先日どこかで落としたと思ったら近所のデカい交差点に落ちていた、2年くらい毎日つけていた磁気ネックレスです)






自分、どうやっても普段から人に優しくしてしまうんですけど、(八方美人とはまたちょっと違う)どれだけ優しくしてもすぐにそれを捨ててまた優しさを必要としている人にどこまでも優しさを吸収されてしまって疲れてしまう事がよくあるなあと思ったんです。

そう言ってるけど、果たして自分は他人に優しく出来ているか、といったらそうではないと思うんです。ナチュラルボーンに優しくて、ノンストレスで周りにそれをばら撒ける人間には優しさで勝てないし、人と比べて気配りが上手くて話を聞くのが得意、という訳ではないですし。ただ自分が弱そうだから、搾取されているだけなのでは?と思っちゃったんですよね、

人によっては優しさは目減りしないかもしれないし、優しさってそういうものではないかもしれないけど、自分の優しさは目減りする。人に優しくできるにも限度があるし、嫌なものを良い、と言うには体力が要るんですよね。

愚痴を吐かれると強い言葉に言葉に影響されてしんどくなっちゃう、又は悪口を言われた相手に対して共感して辛い気持ちになってしまうというのは気持ちの持ちよう、と言われそうですが、根本的な所が変わらないととても変わるのは無理だと思うので、そもそもそういう人から離れた方がいいのでは?でも仲良くなって愚痴を吐かない人なんてそんなにいない訳で、そこの要求が高すぎるのでは?とかぐちゃぐちゃ悩んでいます。たぶん寄りかかりすぎてしまうのがよくないんですよね。

こうやってブログに愚痴ってたりすると「相談乗るよ!」って言われたりする事ってたまにあって、でもそれって「私の相談に乗って!」っていう事の暗喩なんじゃないかっていうのに段々気付いてきて。最初は自分の相談を聞いてくれるけど、「じゃあ私の相談にも乗ってくれる?」って相談に乗ったらひたすら愚痴を聞かされて逆に疲れてしまう、みたいな事が何度かあって。結局人の話を聞き続けるってストレスなんですよね。そんでもって自分の話も話したいからね、わかる。

でも自分もそうなんだよな。無職で時間があるからってそこのリソースは無限にある訳じゃなくて、カウンセラーじゃないんだからって思う事が多々ある。お金が欲しいとまでは言わないけど、我慢できないし、消えるね、ごめんねって感じ。

かといって自分の悩みを上手く人に話せる気がしないんだよな。それこそカウンセラーじゃあるまいし。カウンセラーだったら「この人、こんなに愚痴ったら自分の事を嫌いにならないかな」って思わずに済むけど、現実の人間とコミュニケーション取る時にはそこの線引きに気を付けながら喋んなきゃいけないし。本当にコミュニケーション、向いてないんだなって思っちゃうね。

逆に話すと愚痴ばっかりになる人間、自分に「嫌われるかも」って1mmでも思ってるのかなあ。逆に好感度が上がり過ぎて安心しきっちゃって「嫌われるかも」って観点が抜け落ちてたりして。でもまあ「嫌われてもどっちでもいいや」で話してるんだろうな。本当は話してる相手がどう思ってるか、なんて気にしないで話してる方が健康なんだろうけどね。

私はあなたのカウンセラーになってあげられるけど、私のカウンセラーはどこにいるの?って感じ。まあ90分1万円くらい払えばその辺でカウンセリング受けられるんですけどね、受けた事あります?私よりきっと、あなたに、必要だと思うんですよね、プロのカウンセリング。私なんかよりプロに聞いてもらった方がいい。


本当は100嫌いだとか100好きとか、そうなる事ってまあないんだけど、一人で考えてるとそう考えがちになってしまいがちなのほんと、良くないよね、

思わせぶりに振ってみて、私の事をもっと求めてほしい、っていうやつ、女子中学生かよって思うよね、でも酷い言い草して、「わたしの事、どれだけ好きなの?」ってやってみたくない?というか、それが許されたい。

主観的になって女々しくなっていくとどんどん敬語が剥げていくね、

本当に、そもそも私に、嫌われたかも?って思う事、ある?って感じだ、私の言葉で傷付いたり、私に遠慮して何かをしたりしなかったり、私を怖いと思ったり、そういうのがあるといまいち信じられない。

とはいえ本当に傷付けるのは怖いから実際に面と向かって傷付けるような事はしないけど、とてもじゃないけど私自身の言葉や行動に、そういった類の重みがあるとは思えない。相手もそういう感じで自分自身の言葉にナイフがあるとは思ってない、みたいな感じなんだろうか?

この文章だって、目を皿にして読んでる誰かを傷付けてるかもしれないけど、そもそも誰が読んでるんだって話なんだよな。人と接する機会がないから、愚痴ばっかりの人間も今現在周りに存在しないんだよな。ただの被害妄想で、ぐるぐるしてるだけ。

小学校の時とかに、アスペルガーとかの子供(皆さんの所ではなんて呼ばれてました?こちらは「しんしょー」でした)が、虫食べたり、大声で喚き散らしたり、他の子供を殴ったり、とにかく人にわざと嫌がられるような事をするのを見た事があると思うんだけど、あれはたぶん、自分が誰かに影響を与える、という事が信じられてないからなんだなと思う。自分の存在の小ささに耐えられなかったのだと、今、小学校の時の自分を振り返って思います。



そんな感じで病んでる時期に入っちゃったからごめんね〜⭐️💫って感じです。


依存

頭が痛い。

スマホ依存症、という言葉が頭をよぎるし実際そうなんだろうけど、スマホを離した先で何をやるかといったら漫画とか小説とか、よく行っても勉強とか。どこまで行っても目を酷使してしまう趣味しかないのでどうしようもない。昔は楽器をやっていたのだけれど、下手すぎる自分を直視できなくなってやめてしまった。やればやるだけ上手くなる事に喜びを見出す人間もいるんだろうけど、「下手な自分」をひたすら直視しなければいけない事に耐えきれなかった。自分はなんだってそうだ。

スマホ依存、一口に言っても多岐に渡ると思う。塾で入口から出口までずっとスマホをいじっている中学生はウイイレをやっていた。他のゲームも大してやってないみたいだしウイイレ自体に依存性がある訳でもないし。

SNS依存で友達があげたインスタの写真に病んでる奴、Twitterで男女差別について怒ってる奴、みんなみんな情報に溺れてる。情報には依存性がある。これは本当だ。そしてスマホは情報の宝庫だ。スマホさえあれば友達の情報、有名人の情報、好きなものの情報、大体なんでも手に入る。スマホは情報の権化みたいなものだろう。ケーキバイキングに行ったらケーキが取り放題だから好きなケーキを全種類食べようとしてお腹を壊してしまう。「なんでも手に入る」事に対してちゃんと注意を払わなければならない、、、、、とか立派な事を言うけど自分から離れられた試しがない。人と喋っている時にスマホを弄りだすような人間ではないんだけど、孤独な時間とスマホはべらぼうに相性がいい。飲んだ後に食べるラーメンは美味いみたいな、そういう、健康に悪い相性の良さだ。もう自分は健康に悪い事、アルコールとか、タバコとか、カフェインとか、すぐ身体に出てしまって摂取出来ないけど、情報を摂取する事だけは身体を壊してもやめられないでいる。

健康に悪いのにやめられない事といえば砂糖がある。「砂糖なんてみんな日常生活の中で多かれ少なかれ摂ってるのでは?」と思うかもしれないけど、自分の場合砂糖がめちゃくちゃ入ったジュースがやめられないでいる。じゃあ少しずつ減らしていけば?って話ではあるのだけれど、そもそも毎日が栄養失調気味である為、常に低血糖状態で吐き気がしてしまうのだ。低血糖ブドウ糖を摂れば割と手っ取り早く治ってしまうので(ちゃんと食べないと1時間くらいしか保たないけど)問題が先送り、先送りになってしまう。食べたくない。なんでこんなに食べるのが面倒くさいんだ?って病んでしまうくらいなんだけど、自分で料理したものをそのまま食欲が無くて冷蔵庫に入れて、結局食べれなくて捨ててしまうような、そんな生活をしている。

「自分を大切にできない」人間ってある所が致命的に出来なくなってしまうんだけど、自分はそれが食事だった。多分風呂が苦手な人間は風呂に入れないんだろうし、部屋の片付けが出来ない人間は部屋の片付けが出来ない。後は逆にスナック菓子を食べ過ぎてしまう人間もいるんだろうな。苦しさは人それぞれだ。

勝手にふるえてろ」という映画を完走した。「完走」という表現を使ったのは、おススメされたはいいものの、序盤から苦し過ぎて10分ずつしか観れなかったからだ。あらすじはネットとかで勝手に調べてください。

誤解を恐れずに言うなら、「うわ、女っぽ」という風に感じた。序盤の、周りの人間に内心毒づく言葉に一つも共感できなかったし、最後に二に対して発した言葉がそのまま全部自分に対してのカウンターになってしまっている。正直ラストでも「お前が言うな」って思っていた。多分女性には誰しもこういう自分勝手さとか、情緒不安定さとか、それも引っくるめて自分の思うままに愛して欲しさだったりとか、それらを客観的に見てる気になって打算的になる所とか、あると思うんだけど、自分はそれを二みたいに「それもかわいい」と思って愛してあげられないし、共感もできないと再確認した。勧めてくれたあなたに対して、この感想があなたへの否定になってしまうのなら申し訳ない。自分はそこまで人間が出来てない。

「あなたの事を愛している」という言葉は本当はそう思ってないから言えるのだ、と思ってしまう。言われる側として、こんな甘美な言葉は無くて、一生他人から言われたその言葉を思い出して生きていける程だと思うけど、言う側として、嫌われたらどうしようとか、好きになればなる程、そういう考えが過ってしまう。けど言わなきゃ無だし、受け取り手が好むように発しなきゃマイナスだ。そう思っているうちに何にも伝えられなくなってくる。なんでもかんでも「あなたの事が好き」と伝える人間は軽蔑してしまうけど自分の本心絶対主義みたいな所にも呆れてしまう。

Moonlight

Moonlight

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥250

名前を名前を名前を名前を

夏の匂いがしている。「夏の匂い」と一言に言うとどうやら詩的っぽい感じがするが、ここから「夏の匂い」から「真夏の匂い」に変化していくのが目に見えているのでうんざりしている。肌感覚、と言ってしまうのが一般的に正しいのだろうけど、外に出て、外の空気を吸って、いの一番に季節の違いを訴えてくるのが嗅覚なので、季節の違いを表すとしたらあたしの場合は「匂い」だ。明確にどこ、とはいえないけれど、夏の雨の匂いと冬の雨の匂いは全然違うし、梅雨の時期の匂いとそれ以外の雨の匂いとでは全然違う。感覚の話でしかないけれど。季節の中で一番好きなのが、冬から春に渡る時の晴れの日なんだけれど、あの「一年の余り」みたいな、ぽかんとした何もなさ、みたいな。言葉にして説明しようとすると難しい。あっけなくてやがて4月が始まってしまう。もう5月も終盤なのに3月の終わりに想いを馳せている。

例えば、神様がいたとして、あなたの望む一つを何でも与えてあげましょう、といきなり言われたとして、その条件を神様に重箱の隅を突くように説明したり、決定の期日をやたらめったらに伸ばしたりして、神様の気まぐれを逃しては安心するような、あたしはそんな人間だ。あたしは極端に何かを決める事を怖れている人間だと思うけれど、多かれ少なかれ人間は何か決める事に精神力を使っていると思う。ファミレスのメニュー、クリスマスに買ってもらうプレゼント、どの車を買うか、あたしはひとつだって決められなかったし、そのひとつひとつ後悔して、もうあたしの選択なんて全部間違っているのだ、と思ってしまうのだ。もうあたしはあたし自身の事を決めてしまうのが怖くてたまらない。「あなた自身の事はあなた自身でしか決められない」なんて言ってないであたしの人生の責任を誰かにおっ被せてしまいたい。占い師とかでいいので誰か決めてくれ。

名前が欲しい。あたしの立場を社会的にナチュラルな形で説明できる何かの名前。あなたとの関係を形容する名前。曖昧なままで不安になりたくない。毎日不安でゲロ吐いてるからあなたが決めてくれ。

※主語を「あたし」にする事で自分の中の女々しさを更に引っ張り出そうとしている

アンドロメダの流星群、直撃したらこんな感じ

 

中指のささくれを放置していたら爪まで痛くなってきて本当に憂鬱だ。スマホを持ち上げるのにも一苦労である。指の一本痛いだけでこのザマなのだから、指のない人間なんかどうやって生活しているのだろうと、さっきケツを拭きながら思っていた。

 

小学校からの他の学校の知り合いで確か両方指が3本ずつしかない、みたいな奴が居たような気がする。性格は弱虫ペダルの荒北さんみたいな感じだったと思う。(完全に弱虫ペダルをみんな読んだ事がある前提で話すけど)小学校の時、ハンドボールの選抜で選ばれて2日か3日、東京に大会をしに行った時に一緒だった。自分は当時背が高いだけで選ばれたけど、そいつは本当にハンドボールが上手かった。3本の指でハンドボールをどうやって掴んでるのか謎だったけれど結局聞くことはなかった。高校に上がって何度か対戦したけれど、その時には身体も強くなって投げるボールも更に速くなり、今思うと本当に荒北さんみたいな感じだった。あいつはケツを拭く時どうやって拭いているんだろうな。

 

自宅から数百メートルくらいの所に大きいスーパー銭湯があるので、一月に一度くらいはそこに行くんだけど、よく両腕が丸ごとない人を見る事がある。銭湯ではほぼ眼鏡を外しているので何にも見えないけど、あの人はどうやって服を脱いでいるんだろうか。足とかを器用に使って脱いでいるのか、はたまた誰か補助してくれる人間がいるのか、目で追ってみたい気持ちはあるけれどあんまり凝視したら失礼だろうから意識して目を合わせないようにしている。

 

外に出てると目が見えないで杖をついている人間とか補聴器を付けている人間とかがいるけど、そういう人間に出会った時、未だにどう接していいのか分からない。普通にしてればいいんだろうけど、普通にしてればいい、と思った時こそ普通に出来ないよなあ。

 

 

アパート前ののゴミ捨て場にコロコロコミックが捨てられてあったんだけど、コロコロコミックって家族がいるような世帯しか買わないよな、ここ一人暮らし用のアパートなのにな、とか思っていた。

 

 

 

日中に書いてて低血糖で頭が回らないのでそんなもんだよね

 

 

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好きだから、離れよう

自分がこうしてぐだぐだ言っている事を一言にまとめると「コミュニケーションが上手くいかない」だ。もっと情けなくいえば「何もせずとも愛されたい」とか「私の事を無理矢理他人に押し付けたい」とかになるのかもしれないけど、言葉として出てくる時にどうしても自分の最も情けない言葉では出てこないしかっこつけて出てきてしまうので、これがもっとも本質であるかは分からない。

「コミュニケーションが上手くいかない」なんて現代病で、若い人間誰しも抱えてる悩みだと思うけれど、物心ついた時から今まで暇になるとこの事を考えしまうので、きっと他の人間よりは切実度が高いと思う。

ただ「コミュニケーションが上手くいかない」なんて考えてるのは自分だけであり、他人から見れば普通に会話出来てるのかもしれない、というかその可能性の方が高い。なのにこうも繰り返し「コミュニケーションは上手くいかない」と思わされてるのはなんでなんだろうか。一口にインターネットで繋がれるようになったけどその分社会的な孤独感が増大した、みたいな言い方をされるけど、インターネットのせいにしちゃう?本当にそう?この世にはインターネットに孤独感を侵される人間とそうでない人間がいて、問題は個々人の認知特性によるんじゃない?みたいに思ってしまう。「コミュニケーションが上手くいかない」人間は元々コミュニケーションが上手くいかなくて、それがインターネットで共有されて大きな声になって目立つようになっただけでは?


話を戻すけど今までずっと「コミュニケーションが上手くいかない」→「コミュニケーションを上手くいかせるには?」みたいな事を自問自答し続けたような人生だった。上手くいかない出来事があってはその事象を相対化して、「なんで上手くいかなかったか」を相手に聞くわけにはいかないから、頭の中でトートロジーのように考え続けるような、そんな感じだった。そんなの相互性があるから人によって違うのに、何か法則があるんじゃないか、と1人で問い続けたけど結局上手くいかなかった。当然か。

とはいっても日常的に話す人間が本当にいないので、トライアンドエラーができない。その為原因を小さい頃の自分に求めてしまう。 今は、「人間は言語を話し言葉で覚えたか?書き言葉で覚えたか?」みたいな事を考えている。自分は小さい頃はまともに会話が人と出来なかったので、ずっと本を読んでるかインターネットを見ているかだったので、自分は圧倒的に「書き言葉」側だと思うのだけれど、圧倒的に「話し言葉」で覚える事の方が多いと思っている。「話し言葉」の人間の事はよく分からないけど、「書き言葉」側の人間はインターネットとの親和性が高くて、あとインターネットミームとかの相性がいいと思っている。インターネットで話している言葉がそのまま話している言葉に出てきてしまう人間は「書き言葉」の人間かもしれない。自分は今ここに書いている文章と話している内容の文章がそんなに変わらないと思っている。

インターネットに親和性が高い人間が必ずしも「書き言葉」側の人間じゃないと思っている。「話し言葉」側で言語能力が優れている人は、ちゃんと脳内の言葉を「書き言葉」に変換させて端麗な文章を書く事ができる。

「書き言葉」側の人間が上手く「話し言葉」に変換する事は出来るのかどうか分からない。正直小さい頃にずっと本ばかり読んできた人間が大人になって周りの人間と同じようにコミュニケーションを取れているイメージが湧かない。自分なんかは「書き言葉」が段々と「話し言葉」に混じってきてしまっているので、もう今の感じ以外では文章が書けない。「話し言葉」が流暢な人間はどうやって「書き言葉」までそんなに綺麗に書けるようになるんだろう。

イメージ、そう、ここまで全部勝手なイメージの話なんだよな。結局「書き言葉」「話し言葉」の人間なんて実際には存在しない。ただ多数派と少数派に人類を分けて、その少数派に自分を置きたい、それだけの話だ。

コミュニケーション(英: communication)もしくは通信(つうしん)、交流(こうりゅう)、意思疎通(いしそつう)とは、社会生活を営む人間の間で行われる知覚・感情・思考の伝達[1]。 (生物学)動物個体間での、身振りや音声・匂い等による情報の伝達[1]。 原語がcommunicationなのでカタカナで表記する場合は「コミュニケーション」である(出典:広辞苑[1]。大辞泉[2])。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%e3%82%b3%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%8b%e3%82%b1%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3

パーフェクトゲーム

 

「あなたの事が好きである」という旨のメッセージを本当に相手に届けたい時にどうやって伝えるか、迷ってしまって大事な時に限って上手くいかない。

 

この悩み自体はごく使い古されたような物であるし、「あなたに好きだと伝えたい」というような歌詞はJ-POPでも散見されるので、とても平凡なものではあると思うのだけれど、「あなたの事が好きである」って事を伝えたい時って愛の告白のような場面だけに限らず、「あなたに自信を持って欲しい」「あなたに嫌われたくない」「あなたを嫌いだと思ってはいません」みたいな、そういう意図を持って発している(むしろそちらの方が多い)。

 

そういう事を相手に伝える時に一番大事な物は誠実さとか切実さとかだと今まで信じてきたんだけど、最近になってそうではないのかもしれない、と考えるようになってきた。相手に自分の言葉を信じてもらう為に必要なのは、パッケージの仕方だとか、演出の仕方とか、内面というよりむしろ外見の方なのかもしれない。

今までは自分の本当に内面にある言葉をできるだけ自分の知ってる言葉に照らし合わせて、間違えないように出来るだけ伝える事を重要視して、出来るだけ考える事が誠実さに繋がると思っていたけど、そもそも自分のありのままを伝える事が「誠実さ」と対極にあるのでは?言い方は悪いけど言葉よりも全然行動の方が大事で、言葉自体は軽薄なものでもいいのでは?と思ってきた。だとしても言葉を選ぶ事はやめられない。より軽い言葉を選ぶようにもう一段階時間がかかってしまうだけだ。結局自分如きの内面にある言葉なんてどうせろくなものでもない。

率直に言ってしまうと言葉を考える時間があったら金を積んだ方がいいのでは?みたいな話でした。

 

 

そもそも「愛している」と言って欲しい人間に「愛している」と伝えても溢れて何も残らないに決まっている。「愛している」と言われたい人間に対して、必要な事は「愛している」と言葉を一生懸命考えて伝える事ではない。その人を本当に愛しているなら、その人の信じられるものにパッケージしてそれを継続的に贈る事だ。そういう事はなんとなくわかっているのだけど、上手くできない。

 

以上、夢見りあむへの私信でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

具合悪い中書いた名取へのファンレターにも「大好きな人に大好き、とどう伝えたらいいかわからない」という旨を書いた。具合悪い時に気持ち悪い文章を書きがちなんだよな。名取が飛んで跳ねてる所を見ていると本当に嬉しかった。素直に嬉しさが身体に出てくれればいいのに。

ありのままをひけらかすのはただの卑屈の押し付けでしかない。わかってるんだけどなあ。あなたの事を愛してると伝えるのに必要なのは伝える側の自信である、わかってるんだけど。

 

 

 

ごめんなさい、あなたの事が大好きです、ごめんなさい。気持ち悪いね、ごめんね。

 

 

 

 

 

あたしおかあさんだから

 

このブログでも何回も言っているような気がするけど、「あたし○○だから」という言葉には呪いがかかっている。現代人は自分の役割が不透明であると不安になってしまうので、一人称をそれに固定する事によって自己の役割を自分で確認しよう、みたいな事だと思うけど、他の言語にはそういう事ないもんな。英語では「私」も「僕」も「あたし」も「小生」も全部「I」で示されるけど、もしかしたらもっと他の国の言語で一人称を独特の呼び方でするものがあるかと思ったけど、他の言語ではちょっとググった限りでは無かった。主語で自分の役割を規定しようとするのは日本語だけなんだろうか。海外には「おじいちゃんはねえ、孫であるお前の顔を見るのが何よりも楽しみなんだよ」みたいな表現はないのか。

 

特に「あたしおかあさんだから」の歌詞について何か言う事はないです。タイトルが強烈に自分が今回言いたかった「主語を変える事によって自己の役割を規定する」みたいなテーマに合致していた、ってだけ 

 

とは言っても自分も「俺メンヘラだから」「俺キモオタなので」って自然に言ってしまいがちで、これは良くないんだよな。そう言う事によって本当にそれになってしまう。でもこれ以外に自分を形容する言葉が無くて、そして自分を形容する言葉を他人から与えられないと、とにかく不安になってしまうんだよな。なので自分が前述した日本人の性質にもれなく自分も当てはまってしまう。

 

 

 

これまで、恐れ多くも何度か女性に好きだ、とか愛しているとか言われた経験があるんだけど、須く3ヶ月以内で相手側から撤回されている。そういう人間ばかりに好かれる、と言って片付けてしまえればいいんだけど、本当に同じ様な事が何度も何度も続くので絶対自分に原因があると確信している。それを言ってくれる前に離れてしまうので結局何が悪かったか毎回一人で反省会するしかなくて、その反省会が自己否定のループでしかなくて、半年はぐちゃぐちゃに悩む事になる。多分こういう部分も駄目なんだろうな。「こういう」がどういう所かも明確に分からないから多分次があったとしても同じ事を繰り返す。もしかしたら次はないかもしれない。そう考えるともうひたすら惨めになってくる。

 

一個、自分は「人間関係」としてコミュニケーションを捉え過ぎなんじゃないかな、と思った、対面にいる人間も、社会の人間関係の枠組の中の一個として捉えてしまう。今、目の前にいる人間が今までの人間関係のパターンの一個ではないかもしれないし、きっと対面の人間をひとりの人間として尊重しない態度は相手に見透かされている。

これらの不安とか、内省とかを好きだと言ってくれた人間にあなたへの不信感も含めて全部白状してしまうんだけど、少し考えればこういう不安を他人が許容しても肩代わりしてくれる訳ではないよなあ。反省が止まらない、きっとまだまだ悪い点はある。こうやって自己否定を繰り返して「私なんて愛されるに足る人間ではない」と思い込んで更に相手に執拗にそれを伝えてしまうのも不安を煽る事でしかない。

 

こういう反省を人の目に付く所がまずナンセンスだし、独りよがりだとは思う。ただ、これからもこれを繰り返すのかと思うと今も不安で動悸が止まらない。「あなたにはほとほと愛想が尽きました」とブロックされては脳内でイタチごっこになるだけだ。本当に助けてくれ。(ここで「誰でもいいから」助けてくれ、という含みが感じられるのが尚良くない)

 

あたし、宇宙人だから、人間と殴り合ってケンカがしたい。切にそう思う。